20221104

期日前投票よりも、マイナポイント目当ての方が、多く来庁されます。

この時間にあってですから、非常に複雑な心境です。


兄弟たち、私はあなた方には、霊の人に対するように語る事が出来ず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

『私はあなた方に乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。

まだ固い物を口にする事が出来なかったからです。

いや、今でも出来ません。

相変わらず肉の人だからです。』

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなた方は肉の人であり、ただの人として歩んでいる、という事になりはしませんか。

『ある人が、「私はパウロにつく」と言い、他の人が「私はアポロに」などと言っているとすれば、あなた方は、ただの人にすぎないではありませんか。』

(第一コリント信徒3章1~5行)


聖霊受洗に至っておらず、イエスの三年半期間の時のペトロたちと同じ状態に等しい信仰者たちに、パウロは意味のない派閥を設けるなと注意しています。

聖霊の視点が無いにも関わらず、御霊持ちのように振る舞おうとする事は、ファリサイ派や律法学者と変わらず、肝心の肉の器の神殿造りに集中出来てませんから、苦言を呈されるのも当たり前です。

この事は同じ様に、「私は十二教会に」や、「いや現代人として七つの教会に」という思いに至る者も、退けられる事を表しています。


この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。

その数は海の砂のように多い。

彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ。

すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

(ヨハネ黙示録20章7~9行)


慈悲の刃を主体とした十二教会も、一回目の約二千年前とは違い、二回目の千年王国の終わりの使命では、両刃の剣の象徴で最後の審判に臨む事になります。

千年王国終わりの世界には、最後の審判前に、人間の営みの幸せを手切れ金に渡される、火の池宇宙行きの復活者たち(ヨハネ黙示録20章5行)が、多くいるからです。

その者たちは千年王国に入れなかった退けられた者たちですから、サタンの山羊としてサタンの惑わしの導きに従い、聖なる者たちの陣営に襲いかかります。

ですがエリヤが洗礼者ヨハネであったように、二回目の使命に臨む十二使徒たちによって、二人の証人の時と同じ火で、サタンの山羊たちは焼き尽くされます(ヨハネ黙示録11章5行)。

これが十二使徒たちの両刃の剣の内の、裁きの刃となります。

そして慈悲の刃側の使命に従い、最後の審判で右に別けられた羊たちを、箱船エルサレムの十二の門に、十二使徒が羊飼いとして誘い入城します。


私は都の中に神殿を見なかった。

全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである(地上においても建物の神殿の価値観を退け、聖霊の為の肉の器の神殿造りで、預言者を目指す信仰の者は幸いです)。

この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。

神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。

『諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分の栄光を携えて、都に来る。

都の門は、一日中決して閉ざされない。

そこには夜がないからである。

人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。』

しかし、汚れた者、忌まわしい事と、偽りを行う者は誰一人、決して都に入れない。

小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

(ヨハネ黙示録21章22~27行)


箱船エルサレムには十二の門があり(ヨハネ黙示録21章12行)、十二使徒たちの慈悲の刃の象徴にかなう諸国の民が、都に入ります。

同じ様に現在の七つの教会の終末でも、七つの教会の慈悲の刃を見出だせる方々が、千年王国に至ります。

ですから、「私の心は十二教会と共に」や、「私は必然的に七つの教会に」という派閥的思考の方は、主の御心も両刃の剣の象徴も知らない盲目です。

それに愛と赦しを説かれたイエスも、玉座の王としての責任から、裁きの権威を隠されはしませんでした(マタイ福音書25章31~46行)し、そもそも両刃の剣の言葉を口から出されるのは、イエス御自身なのですから、慈悲についても裁きについても宣言なされるのも、当たり前の事です。

創造主は、その裁きによって、作品である恐竜や古生代の植物なども、失われています。

そしていずれ、地球というキャンバスそのものも、最終的に光の宇宙に皆と引っ越す為に、対価として失われます。

それが創造主である小羊が、御父と同じく神に至る時だからです(ヨハネ黙示録3章2行)。

ですからパウロが注意する、固い食物を食べられない神殿状態を、自由意思で続ける事も出来るリスクに、早く気がつかなければなりません。


旧約聖書の言葉は、裁きの刃の種蒔きで、新約聖書は慈悲の刃の種蒔きです。

そして千年王国開始前の刈入れは、裁きの刃の象徴を持つ七つの教会において行われ、千年王国終わりの刈入れでは、慈悲の刃の象徴を持つ十二使徒の教会で行われます。

この七千年の祭儀は決定事項ですから、先に不変の預言で宣言されているのです。

乳飲み子である宗教者の領域を卒業し、固い食物を食べられる(エゼキエル書3章1行・ヨハネ黙示録10章9行)預言者に至りましょう。

アーメン

20221101

今日は予想通りの満車でしたが、想定よりは一般客が少なかったおかげで、疲労困憊までは至りませんでした。

小さい事ながらも、感謝ですね。


私は、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。

振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり(T字型の十字架、ヨハネ福音書3章14行)、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を絞めておられた。

その頭、その髪の毛、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き…声は大水の轟のようであった。

右の手に七つの星を持ち、『口からは鋭い両刃の剣が出て』、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

(ヨハネ黙示録1章12~16行)


イエスの口から出る鋭い両刃の剣は、片方が慈悲の刃であり、もう片方が裁きの刃です。

同じ様にペトロたちの十二教会と、終末の七つの教会も使命が別れており、十二教会が慈悲の刃で、七つの教会が裁きの刃です。

また、旧約聖書時代が裁きの刃で、イエスの時代から20世紀までが慈悲の刃でした。

そして今の終末は、黙示録に記されている通り(16章、19章11~21行)、七つの教会の裁きの刃の時間です。

ですから七つの教会宛ての手紙の受取人たちは、使徒言行録時代よりも、旧約聖書時代の信仰者たちのように、人生を歩いています。

主においては、過去も現在も未来も同じ時間でしかありませんし、ファリサイ派や律法学者のような人間から出た文化に終わりはあっても、主の時の権威と預言に変わりはないのですから、正しく御心を見極めなければなりません。


彼(癒された盲人)は答えた。

「もうお話ししたのに、聞いて下さいませんでした。

なぜまた、聞こうとなさるのですか。

あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。」

そこで、彼らはののしって言った。

「お前はあの者(イエス)の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。~」

(ヨハネ福音書9章27~29行)


宗教者と光の信仰者のやり取りは、変わらず今も繰り返されています。

自称十二教会の後継者とするクリスチャンたちには、使命が違う七つの教会が、旧約聖書時代の預言者たちのようである事で、それが信仰の後退と目に映るでしょう。

ですが、今の人間たちが誕生する前から決まっていた預言が、現在の人間の都合で変更される事はありません。

聖霊不在の宗教文化だからこそ、必然的に勘違いが成立しているのであって、何の不自然もなく当たり前の結果ですから、あとはモーセの弟子を自称して御心に逆らった者たちのように、同じ運命に身を投じるかを、自由意思で決めるだけです。


「~私が父にあなた達を訴えるなどと、考えて浜ならない。

あなた達を訴えるのは、あなた達が頼りにしているモーセなのだ。

あなた達は、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。

モーセは、私について書いているからである。

しかし、モーセの書いた事を信じないのであれば、どうして私が語る事を信じる事が出来ようか。」

(ヨハネ福音書5章45~47行)


ヨハネが受けた黙示を信じられないのなら、イエスの七つのパン籠の印しも、七つの教会の事も信じられるはずがありません。

パウロのように、間違った過去を対価に失い支払う気が無いのならば、その自由意思は尊重される事になり、いつか無償開示で御心が真に理解でき、主の真意が優先されるはずと聖書を知る者たちに期待した八陽火が、単にお人好しで愚かだっただけです。

イエスが無学な者たちを選ばれてるにも関わらず、八陽火が人間の理性を信じてしまったからの事ですから、本当に八陽火の自惚れによる大失敗でしかありません。

イエスに不可能だったのですから、無宗教者が宗教者に関わったの事は、福音書に無知であるとされても、仕方のない事実となりました。

主は退ける者たちに、頑なな心を渡されますから、それに早くに気付けなかった事も、八陽火の未熟さでしかありません。

何度となく『盗みの権威で関わるな』と警告しても、耳が無かった見極めのポイント(ヨハネ黙示録3章6行)を軽んじた事も、身から出た錆びとして受け賜い、へりくだるばかりの自業自得です。


ペトロたちはイエスの教えを宗教と語った事はありません。

主が宗教神なのか、否か、キリスト教徒たちは最後の審判まで、愚かなギャンブルに賭けると良いでしょう。

自由意思ですから、八陽火は介入してはなりませんから。

寿命が尽きるまでの水掛け論など無意味ですから、失わずに上澄みだけを目指す今の道に、宗教者は集中して、無償開示から去って頂きたいものです。


さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬る事は許さないであろう。

地上の人々は、彼らの事で大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。

この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。

(ヨハネ黙示録11章9、10行)


七つの教会の二本のオリーブの木(ゼカリヤ書4章10~14行)たる遣いは、裁きの刃の使命の報せに準じ、世界中の人々から退けられます。

そうなる事は預言からだけでなく、告げるべき内容からも必然的に分かっていながら、嫌われる使命を果たします。

八陽火とキリスト教徒盗賊団の対立も、この前哨戦を示す印しであり、今の対立も八陽火がその象徴に対して、順調である事を表しています。

ソドムに遣わされた方々が民の反感を買った(創世記19章4、5行)のも、裁きの刃の象徴の真の輝きなのです。

御心の真意を黙認して、大多数と対立せずに、キリスト教徒に仕立てたいと望む、自称十二教会後継者たちには、七つの教会とは一線を引いて頂きたいものです。

七つの教会は、イエスの教え通りに、神殿を肉の器とし、創造主が与えた日常の中で、自身の部屋で祈り、隠れた所を御覧になられる御父の祝福に誘うのですから、建物の教会に来るよう固執する方々とは相容れませんから。

アーメン

20221029

脱カルト教会という団体の記事を見ました。

新たに旧統一教会以外の団体名が出て、二世とされる被害信者が声を上げていました。

この団体も熱心に女性信者が勧誘活動していて、自宅にも何度か来た事があります。

最もその時は「無宗教です」と事実を述べて、お引き取り頂いてますが。

団体は定かでありませんが、宗教者らしい女性二人組を、町でもよく見かけます。

自転車ですと外人の方もおり、男である場合もあります。

ですが基本的に女性が多く、洗脳問題のケースで出てくる場合も、女性のパターンが多いと感じます。

パウロもコリント信徒への手紙で、少し厳しく女性信仰者を抑制していますが、聖霊候補の道筋ゆえか、霊力に悪酔いして暴走的な盲目状態に陥る印象を受けます。

宗教に限らず、日常でも占いや風水といった民間信仰に女性は惹き付けられやすい傾向ですし、日本古来からもイタコや沖縄などの霊媒師は卑弥呼と同じく女性ですから、その傾向を自覚して歯止めをかけられる行動が求められます。

アドレナリン的には物足りないかもしれませんが、タビタこそ縁の下の力持ちで大きな祝福に至った偉大な先駆者ですから、その報せに倣う事こそ、使徒の頭たるペトロの判断に沿うことになるはずです。

霊力に悪酔いした状態は、アル中やヤク中と何ら変わりなく、その偽りの甘美に魅せられてはなりません。

シオンの娘たちですら、暴走して退けられている時代もあるのですから、聖書から学んで霊力酔いが抜けた状態を維持しなければなりません。


異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。

それは誰にも分かりません。

彼は霊によって神秘を語っているのです。

(第一コリント14章2行)


バベルの塔の時の言語分けや、使徒言行録中の知り得ぬ未知の外国語が、異言とされています。

誰にも正確に判断できない特性から、この賜物使いを自称する宗教者も多いと感じます。

恐れ知らずの、神の御手詐欺でしょう。

ですがそれも自由意思のもと、認められているから厄介です。

八陽火の開示は、未知の言語ではなく母国語で報せていますが、異言としても形成されています。

対象を人間だけとはしておらず、空間内の存在にも告げていますから、見張りの者たちや翼ある者たちにも開示しています。

その中には盗賊団の担当者たちもありますから、何度か然りや否も起きています。

玉座より遠ざかっている事から、遣いの人間を通じてしか、御心を知り得ないからです。


私はまた、一人の天使が、底無しの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。

この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底無しの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。

~それは命の書である。

死者たちは、これらの書物に書かれている事に基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

海はその中にいた死者を出し、彼らはそらぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死(サタン)も陰府(ラハブ)も火の池に投げ込まれた。

(ヨハネ黙示録20章)


千年王国のイエスが統治する平和は、サタンや寝ずの番人などの、闇側の見張りの者たちが失職する事で成立します。

これまでの歴史にはない出来事であり、真の平和が訪れます。

千年間だけですが。

そして七千年期の終わりに、この女の方と十二使徒たちの使命時間があり、最後の審判に至ります。

ですが海の中にいる死者が復活できずに裁かれるのは、そこにいるのが人ではなく寝ずの番人たちだからです。

この報せのゆえに、闇の燭台を奉るピラミッドの祭司たるファラオは、魔術師を従えて光側のモーセと相対し、寝ずの番人の象徴持ちゆえに海に沈められ亡くなりました。

寝ずの番人たちへの警告は、早くに報せとして成立していましたが、彼らはヨブ記に見られるように、頑なになり自身たちこそ試されている事には、全く気付きませんでした。

その為に今の暗い宇宙を出て、現実が変わる光の宇宙に行く事が出来ず、火の池宇宙行きと預言されています。

それでも今回の預言の解釈となる異言は、闇側には退けられるでしょう。


イエスの時代に、多くの人が奇跡を求めてイエスに会いに来ました。

ですがイエスは、弟子たちと向かい会うようにハッキリとは言われず、例え話を使われました。

理解には至らないと判断されたからです。

聖霊や御使いの介入がなければ、人だけの力では成立できないようになっているからです。

その為にも、八陽火の開示は空間内の者たちにも向けられています。

最後通告だけではなく、担当する者たちを導き成果を王にお届けしましょうという、紡ぎです。

見張りの者たちや聖霊たちの介入があれば、真に大きな劇的変化が人に起こりますから、これまでの歴史の中で繰り返された事に、終止符が打てるからです。

それでも不変の預言においては、難しい希望である事も事実ですが・・・


最近、どなたかがサムエルを待たなかったサウル王の不義を、書かれていました。

サウル王はルシフェルの象徴持ちですから、サムエルが軽んじられようと、何れにせよ退けられる存在でしたから、サウルに支払われた王体験は、高い代償に繋がりました。

イエスがそうであったように、その日その時は御心に沿わなければなりません。

定められた時より、早くに立てば退けられます。

八陽火にもその時があり、人の計画が介入して早める事は出来ず、それは闇側の誘惑でしかありません。

アフガニスタンで亡くなられた中村医師が、人生において八陽火が敵わない方なのは当たり前です。

それは神の秤において明らかにされており、王においても確かな判断でしょう。

同じように、自分の人生は自身で形成するものですから、マザーテレサのように活動するのもその人の人生です。

そこに七つの教会の権威があればとか、保険を求める事は出来ません。

自身の人生は自分で決断して、空間内の者のサポートを得られるのかで、判断しましょう。

ですが然りも否もあって人生ですから、完璧を望めれば退けられる事になります。

イエスが、活動時間内に弟子たちに聖霊を求めず、何度も憤りを受け入れられたように、また、イエスがお戻りになるまで出番を待機された聖霊のように、真の信仰者は忍耐を御心として、その時を同じ様に信じる事が求められています。

今の時代の者たちは、本当に再臨されるイエスを見届けられるのですから、創造主から受け賜う肉の器の神殿を、整え待ちましょう。


他のカルトの件も記事になっている事から、聖書とイエスの話が人々に対して、難しい流れになりそうです。

七つの教会にとってはマイナスになる風で、やはり終末にあって恵まれた時代の日本人には、厳しい未来が待っているようです。

アーメン