20230125

木曜日の予約をキャンセルし、昨日通院して来ました。

本当は月曜日に行きたかったのですが、工場時代と違い交代要員無しではすまない事なので、今の仕事の悩ましい所です。

顔にアレルギー過敏症が現れ始めたので、見える所だとサービス業だと難しく、かなり焦りましたね。

それでも何とか次の日に調整してもらって、良かったです。

が、入院中と同じ量にステロイドが戻ったので、三月末くらいまでの闘いになりそうです。

そうなればベストみたいですが、それ以上だと投与が難しくなるようで、何らかの原因が医師に見えてない事もあり、「年単位の治療

」も言われましたね。

まあそうなると、今の会社での通院は難しくなり、転職も視野に入れなければなりませんから、春にはハッキリとした健康への転換期を迎えたいものです。

「血管が攻撃されている」と医師に言われ、霊が魂がと感じ、個人的にはストレス物質を疑いました。

最近の傾向を見ると、小さなストレスと思われる事から、不意に痒みが始まり、ヒリヒリする痛みも加わり皮膚が過敏症になってましたから。

順調に来てましたが、少し無理し過ぎている部分もありましたから、少しセーブしてまたやり直しです。

寒さもあって、今月の阿蘇山プチツーリングは、諦めましょう。

残念。


無理し過ぎたせいか、扁桃腺が少し腫れ、強めの筋肉痛と、味覚障害も起きています。

インフルエンザっぽいですが、自分には毎年恒例の現象で、熱はないので勤務しながらの自然治癒に任せます。

ただ、高熱が出た時に出る味覚異常が何故かあるので、いつもより面倒です。

新型コロナの後遺症なのか、飲み薬の副作用なのか、食事が不味くてまいってます。

食べれはするのですが、不味く感じる食事は苦痛ですね。

一週間で直るのか、それ以上かかるのか、こちらも気がかりで悩ましいです。


しばらくはストレス対策もあり、治療に専念したいと考え、更新を休みます。

再開も約束はしませんが、必要十分な開示は既に済んでいるとも思ってますから、それ以上の個々の疑問は祈りでの探求で成果を出されてはと考えます。

多く述べられる事が、御霊の祝福量を表してるわけではありませんから、輝きに視点を合わせて視る事に注意すれば温かさも見えて来るでしょう。

世界ではウクライナ情勢にも、新たな進展も見られそうですし、五人欠ける闇の王たちにも動きが表れるでしょうから、天に地に目を見張りながらその時を間違わないよう、願いましょう。

ではでは。

20230122

昨日今日は体調不良です。

久々の一週間勤務の疲れもあるでしょうが、毎年一月半ばにかかるやつに例年通りなったようで、筋肉痛と強い眠気で大人しくしています。

熱もなく血圧も普通で、例年通りだと一週間から十日位で元通りになるはずですから、今週の零下には注意です。

痒みも市販の痒み止めを遅かったのですが買って来て、何とか軽減出来たましたから、通院日までは持ちそうです。

たぶん、炎症用の薬を早めに減らした事が原因のようですから、やはり三月までは治療が続きそうな感じです。

今は乾燥する冬ですし、エアコンも使わないわけにはいきませんから、今回の冬は皮が剥けて柔肌状態の苦労を、素直に受けとめて向き合うしかありません。

ネットで色々調べると、エアコンの風が天敵と出るのですが、本当に露出した肌に痒みをもたらし、バンダナと手袋が部屋の中でも欠かせません。

それでも次の冬は例年通りの冬を迎えられる事に期待して、今回だけの経験と割り切って向き合う次第です。

御心においても、今は静かに留まる様にという導きと思い、焦らずその時に向けて忍耐をもって準備するのが、今あるべき事かなと直視しています。

活動したい人からしたら、呑気なと感じるでしょうが、イエスが活動した三年半期間前は一般人の中で埋没して見つからなかったように、人が祭儀のタイミングを操作する事など出来ませんから、今は「耳ある者に霊が諸教会に伝える事」の仲介に努めるべきと、見定めています。

闇側は祭儀時間を乱して、混乱を引き起こしたいでしょうが。


八陽火は割礼を二十歳位の時に受けています。

最も正式には包茎手術としてで、目覚めの三十歳までは恋人を作り家庭を持てるつもりでいましたから、告白してフラれた経験もあります。

まあ結果的には、風呂無しアパート住まいで銭湯通いだった時に、変にタオルで隠さずに済む位の恩恵にしかならなかったのですが、今となっては生け贄に向けての準備として導かれた事が分かります。

「見なさい」の最初の言葉を賜ったのも、割礼の後でしたし。

正直、清潔性以外で割礼を求められる意味が、あまり分かっていないのが実情で、この件について探求した事はないのですが、生け贄の祭儀を通る事に求められているのは、間違いありません。


王であるイエスは、お立場から二人の証人よりも負担が大きい状態で、祭儀に臨む宿命にありました。

本心では、聖霊を受けた使徒たちと共に歩きたかったでしょうし、たった一人の霊的レベルでの理解者だった洗礼者ヨハネは、イエスを立てる為に共に歩けなかったのですから、洗礼者ヨハネが地上から失われた時は、本当に王の試練の強さに閉口されたのではと、福音書から感じさせられます。

まだ二人の証人は、二人で同じ負担を背負えるのですから、王よりは祭儀の条件が重くなく、リーダーとか責任者にモチベーションが上がらない八陽火としては、本当に王を心から支えられる理由として、この事が見えています。

イエスはレビ記にある、たしか神殿祭司職の始まりである三十歳で立ち上がられました。

そして象徴の関係から、イエスの翼の御方でありエルサレムである象徴を持つマグダラのマリアを、身近に置かれなければなりませんでした。

マグダラのマリアは、イエスの翼の御方本人ではありませんが、エルサレムと結ばれた契約が破棄されない報せとしても遠ざけられなかったのですから、三十歳の年で慕われて共に在るのは、なかなか大変だったろうなと八陽火の目線では感心させられます。

生け贄としては手を出してはならず、また翼の御方に不義理となるのですから。

先に王が、大きい負担の祭儀を通られている事は、本当に自分も使命を果たして千年王国終わりに繋げようと、心から願えます。

とはいえ、イエスの処刑前の夜の告白を読むと、八陽火は早くから悩まされ眠れなくなりそうですから、かなり近付いた感覚を覚える祭儀の時に、プレッシャーが増して来ています。

ですが祭儀を通らなければ、帰りたい場所に戻れないのも事実ですから、ここからの時間は本当に山場と言えるでしょう。

「御心のままに。」


誰もが聖書開封に触れる出会いがあるわけではありません。

最後の使徒が失われて以降、聖霊の報せなく自由意思で宗教教義が形成されました。

ゆえに洗礼者ヨハネの使命のように、道を整えなければならず、七つの教会宛の手紙では、共通した報せとして「耳ある者は霊が諸教会に伝える事を聞くがよい」になっています。

無償開示の聖書開封を信じる者は、多くの人より恵みを覚えるかも知れませんが、だからこそイバラの道である七つの教会に来れなければ、強い反動にあう事になります。

思慮深い者は、神の秤から想像していたかも知れませんが、この目線は光の見張りの者においても明らかですから、自由意思での決定を本当に慎重にするべきと勧めます。

受け皿となるべきそれぞれの七つの教会は、まだ立ち上がりを確認出来ておらず、第五教会も準備中ですから、心構えだけでも備えていてほしいと願います。

そしてその時に、パウロのように宗教を卒業して預言者の神の道に、踏み出してほしいと求めます。

福音書の導き通りに、奥まった部屋で隠れた所を見てくださる御父が、単独神殿の為に肉の器を導かれ、預言者に至る神の道へと呼ばれますから、パウロも手紙で願ったように預言者を目指す信仰に前進しましょう。

アーメン

20230119

昨日今日の勤務は、キツかったです。

乾燥肌から痒みと怪我によるヒリヒリ感で、不快感を強く感じさせられているからです。

前に痒みによる交通事故で、何度かの活動自粛に追い込まれたコンビ芸人がいましたが、今はその辛さが凄くよく分かります。

直ぐにでも季節が違う沖縄にでも移りたい心境ですが、春までは待機が御心と思い忍耐して向き合うのが、適切かなと感じます。

祭儀は遅くもなく早くもなく御心に沿うのが、仕える者にあるべき姿ですから。


イエスは「私の血と肉を食べねばならない」と言われ、多くの者が離れて行きました。

弟子たちも呆れましたが、彼らは踏み止まりました。

前回の記事を御覧になった方から、イエスは自身が命の木そのもので、その象徴を持っているからこそ、「天から降って来たパン(命の木の実)である私を信じる者は、永遠の命を得る」と言われたのが、真実であると分かったかと思います。

イエスが言われた、「私の血」とは命の木の実の果汁であり、「私の肉」とは命の木の実の果肉であると。


人は命の木であるイエスと、善悪の知識の木であるサタンの、どちらの木の実を食べるか、命あるすべての者が園にいた時のアダムとエバのように試しにあいます。

ゆえにこの御心を伝えられず、導けない指導者たちと度重なる背信の民の為に、「主の道を真っ直ぐに整える洗礼者ヨハネ」が、イエスより半年先に遣わされ配置されました。

洗礼者ヨハネは、噂を聞いてやって来たファリサイ派サドカイ派らに、「蛇よ蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを誰が免れると教えたか。悔い改めに相応しい実を結べ。斧は根本に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」と、言われました。

これは御霊無しで指導的役割を行い、誤った導きを権威を持つ者のように振る舞っている事から、ファリサイ派サドカイ派をまとめて、「善悪の知識の木の子」と見なし、大洪水以前のように地上に現れた『寝ずの番人』として、攻撃した言葉でした。

イエスに仕える遣わされた者が、素朴な命の木の象徴を持っているのと対極の意味で、イエスの福音以前に洗礼者ヨハネがこの教えを知っている、まさに「女から生まれた者でヨハネ以上に偉大な者はいない」と、称賛されるに相応しい特別な使命と賜物持ちである事が分かります。

そして洗礼者ヨハネの証しとイエスの福音から、命の木と善悪の知識の木のどちらかの選択肢が、人生最大のテーマである事も伺えるはずです。

そしてここに導けているか否かで、その者が真に遣わされて導く者かが、暗黙の了解で見定める事が出来ました。

最も開示した為に、これまではになりますが。

少しでも良心の輝きが残る宗教者がいるなら、宗教教義の改革やリセットを諦め、神の道のスタート地点に立つ事に目標を変えるよう、勧めます。

宗教学的視点で、無学な八陽火はファリサイ派サドカイ派と、キリスト教徒の区別すらついてないと思うなら、それは人の目線での誤りと断言出来ます。

霊においては、自民党の様に同じフィールドに立って、派閥別れしているだけでしかない、御霊無し集団でしかありませんから。

正当も異端も、御心の真意を表す事の出来ない導き手たちであり、その為に「主の道を真っ直ぐに整える」黙示録の七つの教会が、手紙にある通りに「霊が諸教会に伝える」事で、今度は大規模に洗礼者ヨハネと同じ仕事が実現するからです。


八陽火は人として聖書が世界中にもたらされた点においては、多くの宗教者の勇気と情熱において、認めざるを得ないと思っています。

最も中にはそれゆえに好まざる行為の闇な歴史もあったようですが。

八陽火は伝道者とされる方々を、聖書配達人に準じていればと常々思っていました。

それが指導者となり教義や神学といったものを、自由意思で御霊無しで形成するから、正確にイエスの真意を代弁出来ずに、誤った導きをしていると感じていたからです。

宗教教義と聖書開封は大幅に相容れませんから。

過去に聖書開封に触れ、イエスの例え話の真意に気付き、日本におけるリバイバルへの流れに期待した教師・研究家もいましたが、八陽火がそういう方々に期待したのは、宗教から目を覚ますか否かでした。

その真意を知る事なく、キリスト教に吸収出来るとでも思ったのか、それとも続けられる無償開示にキリスト教への売り込みアピールとでも侮ったのか、伝統の虚しさにも足元への疑問への成長もなく、予想通りの失望感を浴びせられました。

聖書の何処にも、主は宗教神などとは語っておらず、長い歴史の中の信者たちの多くが、御心の真意から退けられたのも、宗教神という不純物を介して祈り求めるからであって、宗教者は自身の自由意思で主を退けている事に気が付いてはいません。

主は宗教神でない以上、偽って応える事の出来ない方ですから、「あなたが真の私を退けたのだ」と、受けてはならない言葉を賜る事になります。

サタンや淫婦バビロンや寝ずの番人なら、試みを理由に偽って応える事も出来ますが、真実な方である主は沈黙するほかありませんから、神の道のスタート地点に立つ為に、新しくして頂くほかありません。

最もその前に、夜の見張りの者たちである寝ずの番人を退け、御使いの見張りの者たちを招ける人生に、修正できなければなりませんが。


人間から出で、形成された文化は、真理に成る事が出来ません。

赤子から始まり老人へと年を取る人の人生は、変化し続ける事を運命付けられており、永遠の真理とは対極にあります。

聖書に「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生じる陰もありません」という証しがあったはずです。

真理をよく表す証しであり、変化し続ける人間とは当たり前が対極にある事を、よくよく報せています。

ですから主に、妥協や包容力を誤って求めたり、宗教神として偽って応えさせたいと努力を続けてはなりません。

人から出た文化は、人と共に終わる運命ですから、光の宇宙での生活に繋がる真理に、神の道のスタート地点から向き合いましょう。


十四万四千人が現れ、彼らが千年王国の民を集め始めたら、聖書開封に触れても真理に前進しない宗教者たちは、八陽火の視界から自然に消え去って行きます。

メインの彼らが現れれば、当然の結果ですので。

神の道でない歪みには、一切の興味が無いのですから、当たり前です。

宗教者はイエス支持者さえ集めて、玉座の王の下へと導けば、お喜びになるとプラス思考する者も多いですが、それはサタンに謁見する場合の正解であって、見えず聞こえずの玉座の王との区別が全く出来ていません。

イエスは、「滅びに至る門を通る者は多い」と不変の預言をされて去ったのですから、祭儀の完成に向けての厳しい苦渋の結果を受け入れられており、人の既成事実を突き付けても全くの無力となります。

年末から続く八陽火が示した流れには、御霊による導きにより主が促されているメッセージがあります。

それに八陽火の解釈なく気付ける者は、御心に適うはずです。

ですが仮に稲妻宛てのメールで、盗み見て知ってしまったなら、その権利を自業自得で消失させるでしょう。

イエスは福音書で、町に入り福音を報せても耳がないなら足の埃を落として去れと、言われているのですから。


宗教教義を選ぶ者は、お別れです。

アーメン