20230116

皮膚もかなり良くなっては来ました。

新しい皮膚が大火傷のようになっている後に、やっと全体的に形成され、検査の為の採取傷の治療も、かなり簡単に早く済ませられるようになり、日々の負担も軽減されて来ました。

最も、人に不快感を与えずに、腕を露出出来る程の完治に至るのは、まだまだ先でしょうから、本格的に聖書を開き探求・開示するのは、まだ先になりそうです。

この腕で御霊を注がれる事を望むのは、好ましくないでしょうから。


これまでの探求成果から、御父と御子が、なぜ人の目を引っかけるアプローチをとられるのかを、書いてみたいと思います。

それにより、誰もアダムとエバを責める事が出来ない事を、理解出来るでしょう。


聖書の創世記に命の木と善悪の知識の木が出てきます。

園の中心にある二本の木で、主から実を食べる事を禁じられた木です。

この二本の木のうち善悪の知識の木は、エバやアダムの目に魅惑的な力を放ち、命の木より先に手に取らせる事に成功します。

この魅惑的な力にはついては、創世記にも記載があり、蛇も知識の木から実を取れとは、誘導していません。

この二本の木の意味は、主の説明通り、命の木は永遠の命を得、善悪の知識の木は必ず死ぬ対極を示しています。

そしてイエス自身が表されておられる通り、イエスが命の木ですから、イエスを信じる事は永遠の命を得、「私は命のパン(実の事)」と言われ、私の血と肉を食べろと表現されたのも、イエス自身が地上に出現された命の木だからです。

そして確かサタンの造られた時が記されていた、エゼキエル書の28章だったと思いますが、そこには多くの宝石にちりばめらて造られた『美しさの極み』と、神の言葉があります。

この目に訴える魅力の力が表れているのが善悪の知識の木で、それゆえに知識の木の実の意味は、『必ず死ぬ』と成るのです。

サタンは死を司る権威者ですから。

エバとアダムが、何気ない命の木と善悪の知識の木との間の選択で、これが大変なミスを犯してしまった事が、今となって分かるでしょう。

そしてこの選択は、今も地上において多くの人々も迫られ続けており、イエスを信じ御言葉を受け入れるか、御言葉を退けて本能的な自由に生き死を迎えるのかを、別な形でアダムやエバと同様に選択しています。

命の木は魅了の力を人の目に訴えたりしない為に、過去の記事でもイザヤ書の引用から開示しましたが、イエスは預言通りに平凡な御姿の器で使命に臨み、神殿祭司や枢機卿たちのような格好もせず、福音書の記載通りファリサイ派律法学者を強く非難し、預言通りに大通りの派手な道ではなく裏通りで、世の弱者たちに仕えに行かれました。

また選ばれて取られたパウロが、手紙の言葉の力強さに比べ、実際の本人は会うとと揶揄されたのも、命の木であるイエスに仕える者は、写し身とならなければ命の木を表してはいないからです。

ですから八陽火もこの点にいて御心との一致を覚えられ、優秀な宗教者のアピール力に習う事など、到底あり得ませんと断言出来ます。


滅びに至る広い門を通る者が多い終末は、スーパーモデルや俳優やブランドの装飾品など、多くのサタン賛歌の美学が成立しています。

淫婦バビロンも、彼女に仕える形に陥った商人たちを、世の勝利者として導き社会を誘導させ、ヨハネ黙示録の18章通りに支配を形成します。

世界は命の木の実よりも、善悪の知識の木の実を食べた者たちで溢れ返り、主の逆鱗に触れて王は神の軍団を連れて降臨し、黙示録宣言通りの滅びが訪れます。


たびたび宗教者からの、アダムとエバへの非難を見て来ました。

園から追放されて、始まりのきっかけを作ったと。

ですが今回の説明を信じるなら、永遠の命を得られない人生となっても、それは自業自得であると分かるはずです。

すべての人間が、イエスの御言葉の踏み絵を通して、命の木か善悪の知識の木かを自由意思で選択しているのですから。

人生とはこの二択の為に歩いていると言っても過言ではなく、サタン最大の自信となって自身に誘導して来る、『目を魅了する力』から顔を背けて、イミテーションではない本物の温かい光そのものにこそ、目を当てましょう。

人は生まれ持って器の初期設定に違いがあり、視力が良い者は図らずも魅了されやすく苦労も多くなるでしょう。

また親の教育からブランドの価値観を吸収させられたり、容姿と中身の一致を求める事からウワベ主義が育った者など、それぞれに違ういばらの道がありますが、神の秤はそれらも見据えた上で、心の負担と信仰心ゆえの思い悩みにも応える事が出来るのですから、生まれついての事で運・不運で他者と比べないよう、自身にしか歩けない自身の道に集中してほしいと願います。


サタンは最初にエバに声をかけました。

自身の魅惑的な魅力が、アダムよりも強く通じると見抜いていたからです。

男は王の写しゆえか、権威や賛美や栄光や誉れに魅かれますが、女性は装飾品や化粧からも、他者に如何により良く見られるかや見た目による値踏みの視点、また色とりどりの花壇や店舗の内装などからの影響も含め、不利な状態にあるかと思います。

目に訴えて来る多くの魅了の力を退ける負担は、男より必然的に多くなるだろうと感じますから。

ですがこれも聖霊候補ゆえの、有翼と成る(人も御使いも持たない・ゼカリヤ書5章)がゆえに受け賜う霊力の増加量からなら、誰も主にクレームをつける事は敵わず、聖霊への道の必然として臨むほかありません。

祝福を多く望む者は多い負担を覚悟し、また御霊が多いと自覚する者は、率先していばらの道を歩き使命と受け止める事で、これは紛れもない御心であると悟れるはずですから。


誉れの霊の方の翼を汚した八陽火に言われたくない、と思われた方もおられるかも知れません。

ですが身を持ってその代償を払ったからこそ、新しく知って伝えられる事もあります。

八陽火の腕(翼の暗示)より黒血は吐き出され、今は回復のみの一途で、『地上で起こした事は地上で清算される』に基づき、事は成されましたから、主にあってスルーして聞いて頂ければ幸いです。

最も、最大対価値を失った者たちは、勝手に失わされ勝手に清算されたと、憤りを覚えずにはいられないでしょうが、地上を見渡す七つの御目の一つを通じて、結果的に地上の誰よりもブログの言葉が、玉座の王の前の神の七つの霊の燭台を通じて、優先的に映されていての事ですから、願い祈りが反映されずに時間だけが経過している事に、もっと危機感にこそ目覚めるべきでしょう。

八陽火の予想通り、誰一人「まさか祝福を受けるとは!?」と、唸らされた者は現れませんでしたから。


今回の記事に触れれば、正式な意味においては、人の目を引っかけるのはサタンを表す善悪の知識の木である事が、分かったと思います。

イエスに、モーセやダビデやソロモンのように現れて欲しかったと、素直に思った方もあるかと思いますが、聖霊を受ける前の弟子たちが、まさかメシアが十字架に掛かりに行くつもりとはと、先入観と理想との違いからペトロは怒られユダは裏切ったように、御父から遣わされた方の使命と持たれている象徴の意味を見ずに、安易に平凡な御姿での仕事を、意地悪な姿勢だと非難してはならないと、今なら分かるはずです。

また、無学で挑まれたイエスと使徒たちから、宗教者は同じではないと悲観する方もあるかもしれませんが、洗礼者ヨハネやパウロが無学ではない道から遣わされたように、主の慈悲は用意されて見逃されないのですから、御心を思い込みで退けるリスクを覚えて、新しい信仰に導いて頂く為の、目を覚まさせる御手こそ、のばして頂けるよう今こそ望む時でしょう。


人生における命の木と善悪の知識の木の選択において、永遠の命に至る為にもイエスの御言葉に目覚め続けて、命の木の実だけを食べる事にしましょう。

アーメン