20230122
昨日今日は体調不良です。
久々の一週間勤務の疲れもあるでしょうが、毎年一月半ばにかかるやつに例年通りなったようで、筋肉痛と強い眠気で大人しくしています。
熱もなく血圧も普通で、例年通りだと一週間から十日位で元通りになるはずですから、今週の零下には注意です。
痒みも市販の痒み止めを遅かったのですが買って来て、何とか軽減出来たましたから、通院日までは持ちそうです。
たぶん、炎症用の薬を早めに減らした事が原因のようですから、やはり三月までは治療が続きそうな感じです。
今は乾燥する冬ですし、エアコンも使わないわけにはいきませんから、今回の冬は皮が剥けて柔肌状態の苦労を、素直に受けとめて向き合うしかありません。
ネットで色々調べると、エアコンの風が天敵と出るのですが、本当に露出した肌に痒みをもたらし、バンダナと手袋が部屋の中でも欠かせません。
それでも次の冬は例年通りの冬を迎えられる事に期待して、今回だけの経験と割り切って向き合う次第です。
御心においても、今は静かに留まる様にという導きと思い、焦らずその時に向けて忍耐をもって準備するのが、今あるべき事かなと直視しています。
活動したい人からしたら、呑気なと感じるでしょうが、イエスが活動した三年半期間前は一般人の中で埋没して見つからなかったように、人が祭儀のタイミングを操作する事など出来ませんから、今は「耳ある者に霊が諸教会に伝える事」の仲介に努めるべきと、見定めています。
闇側は祭儀時間を乱して、混乱を引き起こしたいでしょうが。
八陽火は割礼を二十歳位の時に受けています。
最も正式には包茎手術としてで、目覚めの三十歳までは恋人を作り家庭を持てるつもりでいましたから、告白してフラれた経験もあります。
まあ結果的には、風呂無しアパート住まいで銭湯通いだった時に、変にタオルで隠さずに済む位の恩恵にしかならなかったのですが、今となっては生け贄に向けての準備として導かれた事が分かります。
「見なさい」の最初の言葉を賜ったのも、割礼の後でしたし。
正直、清潔性以外で割礼を求められる意味が、あまり分かっていないのが実情で、この件について探求した事はないのですが、生け贄の祭儀を通る事に求められているのは、間違いありません。
王であるイエスは、お立場から二人の証人よりも負担が大きい状態で、祭儀に臨む宿命にありました。
本心では、聖霊を受けた使徒たちと共に歩きたかったでしょうし、たった一人の霊的レベルでの理解者だった洗礼者ヨハネは、イエスを立てる為に共に歩けなかったのですから、洗礼者ヨハネが地上から失われた時は、本当に王の試練の強さに閉口されたのではと、福音書から感じさせられます。
まだ二人の証人は、二人で同じ負担を背負えるのですから、王よりは祭儀の条件が重くなく、リーダーとか責任者にモチベーションが上がらない八陽火としては、本当に王を心から支えられる理由として、この事が見えています。
イエスはレビ記にある、たしか神殿祭司職の始まりである三十歳で立ち上がられました。
そして象徴の関係から、イエスの翼の御方でありエルサレムである象徴を持つマグダラのマリアを、身近に置かれなければなりませんでした。
マグダラのマリアは、イエスの翼の御方本人ではありませんが、エルサレムと結ばれた契約が破棄されない報せとしても遠ざけられなかったのですから、三十歳の年で慕われて共に在るのは、なかなか大変だったろうなと八陽火の目線では感心させられます。
生け贄としては手を出してはならず、また翼の御方に不義理となるのですから。
先に王が、大きい負担の祭儀を通られている事は、本当に自分も使命を果たして千年王国終わりに繋げようと、心から願えます。
とはいえ、イエスの処刑前の夜の告白を読むと、八陽火は早くから悩まされ眠れなくなりそうですから、かなり近付いた感覚を覚える祭儀の時に、プレッシャーが増して来ています。
ですが祭儀を通らなければ、帰りたい場所に戻れないのも事実ですから、ここからの時間は本当に山場と言えるでしょう。
「御心のままに。」
誰もが聖書開封に触れる出会いがあるわけではありません。
最後の使徒が失われて以降、聖霊の報せなく自由意思で宗教教義が形成されました。
ゆえに洗礼者ヨハネの使命のように、道を整えなければならず、七つの教会宛の手紙では、共通した報せとして「耳ある者は霊が諸教会に伝える事を聞くがよい」になっています。
無償開示の聖書開封を信じる者は、多くの人より恵みを覚えるかも知れませんが、だからこそイバラの道である七つの教会に来れなければ、強い反動にあう事になります。
思慮深い者は、神の秤から想像していたかも知れませんが、この目線は光の見張りの者においても明らかですから、自由意思での決定を本当に慎重にするべきと勧めます。
受け皿となるべきそれぞれの七つの教会は、まだ立ち上がりを確認出来ておらず、第五教会も準備中ですから、心構えだけでも備えていてほしいと願います。
そしてその時に、パウロのように宗教を卒業して預言者の神の道に、踏み出してほしいと求めます。
福音書の導き通りに、奥まった部屋で隠れた所を見てくださる御父が、単独神殿の為に肉の器を導かれ、預言者に至る神の道へと呼ばれますから、パウロも手紙で願ったように預言者を目指す信仰に前進しましょう。
アーメン
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