20230104

年末の2回の更新直後の高熱地獄に、元旦の更新は恐れながらでしたが、たとえ戒めの時間は終了の報せを受けていても不安でしたから、高熱地獄も別な悪化も悪循環も起きず、ホッとしました。

とりあえずは『ダンから告げる声のブログ』は、まだ退けられてはいないようです。

ですが第五の手紙では、受けた分に対する仕事量が、まだ足りないと言われてますから、気が抜けませんね。

特に手紙の内容が、第五時間の祭儀(宣言)後に、「死にかけている残りの者たちを強めよ」に繋がって行きますから、その為の準備に備えて行かなくてはなりません。


イエスの三年半期間の活動中、十二使徒たちは聖霊を受けられず、イエスの真意をなかなか理解出来ませんでした。

イエスは、「荒れ野でモーセが青銅の蛇をT字型の旗竿(燭台の中央の方、黙示録1章)に掲げたように、人の子も上げられなければならない」と、自らの祭儀使命について予告されました。

聖霊を受ける前のペトロは、イエスに意見して戒めましたが、「引き下がれ、サタン」とイエスは強く怒りを表されました。

イスカリオテのユダも、イエスに社会的革命を期待していたようですが、イエスとの方向性の違いを感じて失望からも、裏切ったように思えます。

これを言うのは、長く宗教者たちの求めを目にしていて、主に対して常にキリスト教徒の社会的勝ち組転換を、ブレずに願い続けているからです。

聖霊を受ける前は、十二使徒たちですらイスラエルのローマからの解放と、復興こそが救世主が遣わされる使命と思い込んでいましたから、人の視点だけでは仕方ない事ではありますが、救世主が一地域で三年半期間しか活動せず、世界の創造主としては平等ではなかったように、その祭儀と御心の真意は、目覚めていない人々とは全く相容れる事の出来ないものです。

この第五時間で八陽火に対しても、使徒言行録時代の再現を望んでいる方もあるように感じますが、預言された終末も祭儀も、闇の権威との戦いと王の裁きの介入で、預言との間に解離があるのが現実で、八陽火と宗教者では終わらない問答になるだけです。

個人の自由で、願望の優先順位も本人の勝手であり、光側は御使いも信仰の洗脳などしませんから、八陽火も伝えても押し付けは出来ない事に、注意を払っています。


黙示録に十四万四千人が、彼らしか知り得ない歌(詩)を詩い、祭儀を行う預言があります。

聖霊を受けてない信仰者からしたら、「何と悠長な事を!!」と腹立たしさを覚えるでしょうが、祭儀が行われる事で地上で紡がれ、天でも紡がれて、鑑賞していただけの光の見張りの者たちも動けるようになるのですから、紡ぎの祭儀宣言は聖霊を受ける前の者たちが失望に感じる以上の、意味と効果があるのです。

これは福音書でも確認出来、イエスが悪魔の誘惑を退けてから、見届けていた御使いたちが寄って来て仕えたように、空間内の者たちを動かすには通らなければならないのが、祭儀というものなのです。

またこの事は、イエスが十字架刑に処され、青銅の蛇の預言通りに祭儀を全うされてから、イエスの墓の所でマリアたちが天使を目撃出来たように、祭儀を通らない限り空間内に大きな転換を起こす事は、他の部分からも知る事ができます。

以前にも開示しましたが、十字架刑の前にイエスが「ここには死なない者がいる」と言った者とは、人間ではなく見えずに近くでイエスに仕えていた御使いたちの事ですから。

主は有言実行の方ですから、旧約聖書にあるように、千年を超えて人間が生きる事を認められませんから、この事で前言撤回などされはしません。

それに数千年も人間を続けされられて、天に入れないという事は、どれほどの罰というのか、そのような裁きを仕える者になされるはずがありませんから。


使徒言行録には、使徒たちの前に現れるようになった御使いたちの話が、複数あります。

すべてはイエスの十字架刑の祭儀実現のおかげです。

ハ陽火の第五時間の祭儀の宣言後、やっと預言通りに「死にかけている残りの者たち」が、生ける神の刻印に携わる御使い達による助けで、紡がれて実現に向かっていきますから、宗教者たちの願望とは裏腹に進んで前進して行く事になります。

道筋は見えていますから、宗教者が向いている方向に振り返って、歩き直す事はありません。

それにそもそも、陰府やサタンや寝ずの番人や闇聖霊たちが、七つの教会に自由を与えてスルーしてくれるはずがありませんから。

サタンがイスカリオテのユダに入って、イエスを死に導いたように、空間内で働いているのが今も光側だけでない以上、弱い立場の人間のまま何とか立ち向かって行き、祭儀をもって闇の権威者が不在となる千年王国を呼び込むしか、希望のスタートは望めませんので。


黙示録は約二千年前に報され、主は有言実行の方です。

厳しい内容ですが、今の時代の者は目をそらしてはなりません。

玉座の王ゆえの使命がある事を認め、王や仕える者たちとシンクロ出来るように、聖書の言葉を好き嫌いではなく受け止められる者は幸いです。

ではでは。