20221113

期日前投票期間の勤務が、やっと終わりました。

ですが今週は、消防訓練で駐車場の半分が、半日使用出来ない日がありますから、その日は覚悟しなければなりません。

それでもそれが終われば、警戒するような日も年末まではありませんから、落ち着いて交通誘導できる事を願いたいです。

本当に男女に関係なく、ハンドルを握ると人が変わる方が、多数いるのが分かりましたから。


ペトロは外にいて中庭に座っていた。

そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。

~その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた(マタイ福音書10章32、33行)。

するとすぐ、鶏が鳴いた。

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。

そして外に出て、激しく泣いた。

(マタイ福音書26章69~75行)


女中に訴えられそうになり、ペトロはイエスの預言通りに、鶏が鳴く前に三度「知らない」と言いました。


「~私も言っておく。

あなたはペトロ。

私はこの岩の上に教会を建てる。

陰府の力もこれに対抗出来ない。

『私はあなたに天の国の鍵を授ける。』~」

(マタイ福音書16章18、19行)


ペトロを訴えて、イエスと同じ様に死に導こうとした女中は、陰府ラハブに使われた者でしょう。

ですがペトロに死をもたらす事は出来ませんでした。

それは鶏が贖いの蓋の上の、翼ある天使を表し、声で陰府の手招きを退けたからです。

聖霊を受ける前でしたが、天の鍵を授けられていたおかげで、護られました。


三度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」

ペトロは三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。

そして言った。

「主よ、あなたは何もかも御存知です。

私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」

(ヨハネ福音書21章17行)


イエスはペトロに、神の秤の傾きをきちんと清算させ、聖霊受洗に向け整えられました。

聖霊を受けなければ賜物は開かず、十二の籠のパンである御言葉の種蒔きが出来ないからです。

またペトロは、イエス復活後の清算前に漁師に戻っており(ヨハネ福音書21章3行)、聖霊受洗前の無力な状態を自覚出来ていました。

遣わされる事は決まっていても、その時を見間違えなかった事は、彼にとって運命の清算となりました。


十四万四千人たちは、八陽火も知る事が出来ない歌の言葉を受け賜ります(ヨハネ黙示録14章3行)。

地上より贖われる彼らを、待ち臨みます。

アーメン

20221110

アメリカの中間選挙、前評判とは違い拮抗しているようです。

共和党の赤い波は来なかったようですが、それでも来週にはトランプ前大統領が、立候補を表明するのか注目です。

それにしてもたった二年で、少し頬痩けしてしていて、老人を感じたのが意外でした。

それでも出馬すれば、これから来る食料問題や水不足や戦争や災害などの試練の時ですから、多くの人の不平不満の受け皿になる追い風が吹きそうで、第六時間の到来を予感せずにはいられません。


弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持ってくるのを忘れていた。

イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。

弟子たちは、「これはパンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。

イエスはそれに気づいて言われた。

「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていない事で論じ合っているのか。

まだ、分からないのか。

覚えていないのか。

『パン五つを五千人に分けた時、残りを幾籠に集めたか。

また、パン七つを四千人に分けた時は、残りを幾籠に集めたか。』

パンについて言ったのではない事が、どうして分からないのか。

ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい。」

その時ようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種の事ではなく、ファリサイ派とサドカイ派の教えの事だと悟った。

(マタイ福音書16章5~12行)


イエスは貴重な三年半期間の活動を、宗教改革には使わず、無学な者たちであるペトロたちへの、家庭教師的時間に使われました。

羊のなめし革に書かれた聖書は、誰もがいつでも読める時代ではありませんでしたから、三年半期間をスピーディーに有効活用し、大きな土台を作って遺すなら、宗教改革の方が効果が早かったはずです。

ですがイエスは、聖書を聖典とする別な者たちを、始めから退けられました。

良心の輝きの有無を確認する事なくです。

そして漁師だった素人のペトロを弟子として取られ、十二教会の土台作りを始められました。

その際イエスは、都合の良い人造教義が入り込まないよう、ファリサイ派とサドカイ派のパン種への警戒を、警告されました。

真理の霊である聖霊の介在無い教えは、脳から出た人の教えで、それは地で紡がれても天では紡がれません(マタイ福音書18章18行)から、人が持つ自由の産物であり、人の体と同じく朽ち果てる文化です。

永遠の真理とは、全く異なります。


人が持つ自由のゆえに、イスラエル人は何度となく主を裏切った事が、旧約聖書には記されています。

主は人の信仰を強制管理されず、自由による結果の成立まで見届けられます。

人にとっては、そこまで自由意思を尊重される事に、失望と憤りを覚える者もあるかもしれません。

ですが人間だけでなく、空間内の見張りの者たちの自由結果も見届けられてるのですから、彼らの仕事を奪うような介入は、難しいのが現実です。

終わりの日に裁かれるのは、人間だけではありませんから。


月食と天王星食が話題になりましたが、人がいないそれらの星には見張りの者もおらず、四方の風を司る天使(ヨハネ黙示録7章1行)も、雷を司る天使も、雨を司る天使も、またその他の生命の為の運行を司る天使たちもいません。

それが地球のような、特別な環境の星が成立している秘密であり、野ざらしの多くの星たちとの決定的な違いです。

人もおらず、生命の息吹き無い星で、ポツンと働く天使はありませんから、恵まれた現代人ならではの視点で、考えた事もない当たり前への感謝を見つけましょう。

そして人間たちも、空間内の者たちも、時の権威者たる御父の掌の上にある事を悟り、神への道が見えて来ます。

なぜなら人が地上を去った後、見張りの者の仕事に就く事も、不可能ではないからです。

またそれは、タビタが聖霊として白い衣を作る事が出来る事も、示しています。

アーメン

20221107

熊本市長選にウンザリしてますが、アメリカの中間選挙は大いに気になります。

独裁者好きの人物が、再びやる気になってますから。


娘シオンよ、大いに踊れ。

娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。

彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶる事なく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って。

(ゼカリヤ書9章9行)


~祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。

そして、叫び続けた。

「ホサナ。

主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

イエスはロバの子を見つけて、お乗りになった。

次のように書いてあるとおりである。

「シオンの娘よ、恐れるな。

見よ、お前の王がおいでになる。

ロバの子に乗って。」

弟子たちは最初これらの事が分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたという事を思い出した。

(ヨハネ福音書12章12~16行)


受ける印象がゼカリヤ書の記述と少し違いますし、同じ箇所でマタイ福音書ともマルコ福音書とも、多少違っています。

ですが、この印しがあった事は事実で、秘められた象徴に臨んでみたいと思います。

不思議な預言の成立ですが、民数記にあるバラムと喋るロバと抜き身の剣の御使いの話に、真の知らせに繋がるヒントがあるように思われます。


主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見たロバは、道をそれて畑に踏み込んだ。

バラムはロバを打って、道に戻そうとした。

主の御使いは、ぶどう畑の間の狭い道に立っていた。

道の両側には石垣があった。

ロバは主の御使いを見て、石垣に体を押し付け、バラムの足も石垣に押し付けたので、バラムはまた、ロバを打った。

主の御使いは更に進んで来て、右にも左にもそれる余地

のない狭い場所に立ち塞がった。

ロバは主の御使いを見て、バラムを乗せたままうずくまってしまった。

バラムは怒りを燃え上がらせ、ロバを杖で打った。

主がそのとき、ロバの口を開かれたので、ロバはバラムに言った。

「私があなたに何をしたというのですか。

三度も私を打つとは。」

(民数記22章23~28行)


三度打たれたロバは、イエスを表してる様に感じます。


そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「めしあ、お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ」と言った。

(マタイ福音書26章67、68行)


そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

(マタイ福音書27章26行)


また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。

(マタイ福音書27章30行)


イエスは大祭司の屋敷と、裁判所と、総督官邸の3ヵ所で、打たれたと記されています。

また、抜き身の剣で御使いが立ち塞がった道が、滅びに至る広い門で、ぶどう畑の狭い道が、救いに至る狭い門の象徴になっていると思われ、道の両側の石垣がエルサレムの城門の暗示でしょう。

そうなると、バラムはイエスの死を求めた祭司長や長老たちの、象徴持ちという事になります。


彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。

バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対する咎めを受けました。

ものを言えないロバが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。

(ペトロの手紙第二2章15、16行)


神の声を聞いたバラムも、モーセの怒りを買う不義を行い、滅ばされました(民数記3章8~16行)。

また、ロバを怯ませた抜き身の剣の御使いは、イスカリオテのユダに入って、イエスを死に誘ったサタンを表していると思われます。

サタンは元ケルブだった御使いで、今の意味名は死ですから。


イエスは自身を表すロバの子に乗って入城しました。

ゼカリヤ書の預言では、子ロバは雌ロバの子となっており、そうなると雌ロバは御父の翼の御方ですから、イエスがヨハネの洗礼を受けた時に来られた、聖霊という事になります。


その時、天がイエスに向かって開いた。

イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

『その時、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』

(マタイ福音書3章16、17行)


黙示録には再臨されるイエスが記されていますが、ロバではなく馬に乗られて来られます(ヨハネ黙示録19章11行)。

玉座の王として白馬でお出でになられるようですが、生誕して天使よりも低くなられた人間イエスとしては、ロバで入城する事でへりくだられたと思われます。

これがサタンなら、愚か者の代名詞とも評されるロバに乗るなど、選択肢にないイメージ戦略ですから、その価値観の対極が伺える印しになりました。


ロバについて調べましたが、なぜ雌ロバに御父の翼の御方が例えられたのかは、分かりませんでした。

まあ、恐れおおい探求にもなりかねませんから、難しいテーマですね。

アーメン