20230119

昨日今日の勤務は、キツかったです。

乾燥肌から痒みと怪我によるヒリヒリ感で、不快感を強く感じさせられているからです。

前に痒みによる交通事故で、何度かの活動自粛に追い込まれたコンビ芸人がいましたが、今はその辛さが凄くよく分かります。

直ぐにでも季節が違う沖縄にでも移りたい心境ですが、春までは待機が御心と思い忍耐して向き合うのが、適切かなと感じます。

祭儀は遅くもなく早くもなく御心に沿うのが、仕える者にあるべき姿ですから。


イエスは「私の血と肉を食べねばならない」と言われ、多くの者が離れて行きました。

弟子たちも呆れましたが、彼らは踏み止まりました。

前回の記事を御覧になった方から、イエスは自身が命の木そのもので、その象徴を持っているからこそ、「天から降って来たパン(命の木の実)である私を信じる者は、永遠の命を得る」と言われたのが、真実であると分かったかと思います。

イエスが言われた、「私の血」とは命の木の実の果汁であり、「私の肉」とは命の木の実の果肉であると。


人は命の木であるイエスと、善悪の知識の木であるサタンの、どちらの木の実を食べるか、命あるすべての者が園にいた時のアダムとエバのように試しにあいます。

ゆえにこの御心を伝えられず、導けない指導者たちと度重なる背信の民の為に、「主の道を真っ直ぐに整える洗礼者ヨハネ」が、イエスより半年先に遣わされ配置されました。

洗礼者ヨハネは、噂を聞いてやって来たファリサイ派サドカイ派らに、「蛇よ蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを誰が免れると教えたか。悔い改めに相応しい実を結べ。斧は根本に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」と、言われました。

これは御霊無しで指導的役割を行い、誤った導きを権威を持つ者のように振る舞っている事から、ファリサイ派サドカイ派をまとめて、「善悪の知識の木の子」と見なし、大洪水以前のように地上に現れた『寝ずの番人』として、攻撃した言葉でした。

イエスに仕える遣わされた者が、素朴な命の木の象徴を持っているのと対極の意味で、イエスの福音以前に洗礼者ヨハネがこの教えを知っている、まさに「女から生まれた者でヨハネ以上に偉大な者はいない」と、称賛されるに相応しい特別な使命と賜物持ちである事が分かります。

そして洗礼者ヨハネの証しとイエスの福音から、命の木と善悪の知識の木のどちらかの選択肢が、人生最大のテーマである事も伺えるはずです。

そしてここに導けているか否かで、その者が真に遣わされて導く者かが、暗黙の了解で見定める事が出来ました。

最も開示した為に、これまではになりますが。

少しでも良心の輝きが残る宗教者がいるなら、宗教教義の改革やリセットを諦め、神の道のスタート地点に立つ事に目標を変えるよう、勧めます。

宗教学的視点で、無学な八陽火はファリサイ派サドカイ派と、キリスト教徒の区別すらついてないと思うなら、それは人の目線での誤りと断言出来ます。

霊においては、自民党の様に同じフィールドに立って、派閥別れしているだけでしかない、御霊無し集団でしかありませんから。

正当も異端も、御心の真意を表す事の出来ない導き手たちであり、その為に「主の道を真っ直ぐに整える」黙示録の七つの教会が、手紙にある通りに「霊が諸教会に伝える」事で、今度は大規模に洗礼者ヨハネと同じ仕事が実現するからです。


八陽火は人として聖書が世界中にもたらされた点においては、多くの宗教者の勇気と情熱において、認めざるを得ないと思っています。

最も中にはそれゆえに好まざる行為の闇な歴史もあったようですが。

八陽火は伝道者とされる方々を、聖書配達人に準じていればと常々思っていました。

それが指導者となり教義や神学といったものを、自由意思で御霊無しで形成するから、正確にイエスの真意を代弁出来ずに、誤った導きをしていると感じていたからです。

宗教教義と聖書開封は大幅に相容れませんから。

過去に聖書開封に触れ、イエスの例え話の真意に気付き、日本におけるリバイバルへの流れに期待した教師・研究家もいましたが、八陽火がそういう方々に期待したのは、宗教から目を覚ますか否かでした。

その真意を知る事なく、キリスト教に吸収出来るとでも思ったのか、それとも続けられる無償開示にキリスト教への売り込みアピールとでも侮ったのか、伝統の虚しさにも足元への疑問への成長もなく、予想通りの失望感を浴びせられました。

聖書の何処にも、主は宗教神などとは語っておらず、長い歴史の中の信者たちの多くが、御心の真意から退けられたのも、宗教神という不純物を介して祈り求めるからであって、宗教者は自身の自由意思で主を退けている事に気が付いてはいません。

主は宗教神でない以上、偽って応える事の出来ない方ですから、「あなたが真の私を退けたのだ」と、受けてはならない言葉を賜る事になります。

サタンや淫婦バビロンや寝ずの番人なら、試みを理由に偽って応える事も出来ますが、真実な方である主は沈黙するほかありませんから、神の道のスタート地点に立つ為に、新しくして頂くほかありません。

最もその前に、夜の見張りの者たちである寝ずの番人を退け、御使いの見張りの者たちを招ける人生に、修正できなければなりませんが。


人間から出で、形成された文化は、真理に成る事が出来ません。

赤子から始まり老人へと年を取る人の人生は、変化し続ける事を運命付けられており、永遠の真理とは対極にあります。

聖書に「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生じる陰もありません」という証しがあったはずです。

真理をよく表す証しであり、変化し続ける人間とは当たり前が対極にある事を、よくよく報せています。

ですから主に、妥協や包容力を誤って求めたり、宗教神として偽って応えさせたいと努力を続けてはなりません。

人から出た文化は、人と共に終わる運命ですから、光の宇宙での生活に繋がる真理に、神の道のスタート地点から向き合いましょう。


十四万四千人が現れ、彼らが千年王国の民を集め始めたら、聖書開封に触れても真理に前進しない宗教者たちは、八陽火の視界から自然に消え去って行きます。

メインの彼らが現れれば、当然の結果ですので。

神の道でない歪みには、一切の興味が無いのですから、当たり前です。

宗教者はイエス支持者さえ集めて、玉座の王の下へと導けば、お喜びになるとプラス思考する者も多いですが、それはサタンに謁見する場合の正解であって、見えず聞こえずの玉座の王との区別が全く出来ていません。

イエスは、「滅びに至る門を通る者は多い」と不変の預言をされて去ったのですから、祭儀の完成に向けての厳しい苦渋の結果を受け入れられており、人の既成事実を突き付けても全くの無力となります。

年末から続く八陽火が示した流れには、御霊による導きにより主が促されているメッセージがあります。

それに八陽火の解釈なく気付ける者は、御心に適うはずです。

ですが仮に稲妻宛てのメールで、盗み見て知ってしまったなら、その権利を自業自得で消失させるでしょう。

イエスは福音書で、町に入り福音を報せても耳がないなら足の埃を落として去れと、言われているのですから。


宗教教義を選ぶ者は、お別れです。

アーメン