20221101
今日は予想通りの満車でしたが、想定よりは一般客が少なかったおかげで、疲労困憊までは至りませんでした。
小さい事ながらも、感謝ですね。
私は、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり(T字型の十字架、ヨハネ福音書3章14行)、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を絞めておられた。
その頭、その髪の毛、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き…声は大水の轟のようであった。
右の手に七つの星を持ち、『口からは鋭い両刃の剣が出て』、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
(ヨハネ黙示録1章12~16行)
イエスの口から出る鋭い両刃の剣は、片方が慈悲の刃であり、もう片方が裁きの刃です。
同じ様にペトロたちの十二教会と、終末の七つの教会も使命が別れており、十二教会が慈悲の刃で、七つの教会が裁きの刃です。
また、旧約聖書時代が裁きの刃で、イエスの時代から20世紀までが慈悲の刃でした。
そして今の終末は、黙示録に記されている通り(16章、19章11~21行)、七つの教会の裁きの刃の時間です。
ですから七つの教会宛ての手紙の受取人たちは、使徒言行録時代よりも、旧約聖書時代の信仰者たちのように、人生を歩いています。
主においては、過去も現在も未来も同じ時間でしかありませんし、ファリサイ派や律法学者のような人間から出た文化に終わりはあっても、主の時の権威と預言に変わりはないのですから、正しく御心を見極めなければなりません。
彼(癒された盲人)は答えた。
「もうお話ししたのに、聞いて下さいませんでした。
なぜまた、聞こうとなさるのですか。
あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。」
そこで、彼らはののしって言った。
「お前はあの者(イエス)の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。~」
(ヨハネ福音書9章27~29行)
宗教者と光の信仰者のやり取りは、変わらず今も繰り返されています。
自称十二教会の後継者とするクリスチャンたちには、使命が違う七つの教会が、旧約聖書時代の預言者たちのようである事で、それが信仰の後退と目に映るでしょう。
ですが、今の人間たちが誕生する前から決まっていた預言が、現在の人間の都合で変更される事はありません。
聖霊不在の宗教文化だからこそ、必然的に勘違いが成立しているのであって、何の不自然もなく当たり前の結果ですから、あとはモーセの弟子を自称して御心に逆らった者たちのように、同じ運命に身を投じるかを、自由意思で決めるだけです。
「~私が父にあなた達を訴えるなどと、考えて浜ならない。
あなた達を訴えるのは、あなた達が頼りにしているモーセなのだ。
あなた達は、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。
モーセは、私について書いているからである。
しかし、モーセの書いた事を信じないのであれば、どうして私が語る事を信じる事が出来ようか。」
(ヨハネ福音書5章45~47行)
ヨハネが受けた黙示を信じられないのなら、イエスの七つのパン籠の印しも、七つの教会の事も信じられるはずがありません。
パウロのように、間違った過去を対価に失い支払う気が無いのならば、その自由意思は尊重される事になり、いつか無償開示で御心が真に理解でき、主の真意が優先されるはずと聖書を知る者たちに期待した八陽火が、単にお人好しで愚かだっただけです。
イエスが無学な者たちを選ばれてるにも関わらず、八陽火が人間の理性を信じてしまったからの事ですから、本当に八陽火の自惚れによる大失敗でしかありません。
イエスに不可能だったのですから、無宗教者が宗教者に関わったの事は、福音書に無知であるとされても、仕方のない事実となりました。
主は退ける者たちに、頑なな心を渡されますから、それに早くに気付けなかった事も、八陽火の未熟さでしかありません。
何度となく『盗みの権威で関わるな』と警告しても、耳が無かった見極めのポイント(ヨハネ黙示録3章6行)を軽んじた事も、身から出た錆びとして受け賜い、へりくだるばかりの自業自得です。
ペトロたちはイエスの教えを宗教と語った事はありません。
主が宗教神なのか、否か、キリスト教徒たちは最後の審判まで、愚かなギャンブルに賭けると良いでしょう。
自由意思ですから、八陽火は介入してはなりませんから。
寿命が尽きるまでの水掛け論など無意味ですから、失わずに上澄みだけを目指す今の道に、宗教者は集中して、無償開示から去って頂きたいものです。
さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬る事は許さないであろう。
地上の人々は、彼らの事で大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。
この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。
(ヨハネ黙示録11章9、10行)
七つの教会の二本のオリーブの木(ゼカリヤ書4章10~14行)たる遣いは、裁きの刃の使命の報せに準じ、世界中の人々から退けられます。
そうなる事は預言からだけでなく、告げるべき内容からも必然的に分かっていながら、嫌われる使命を果たします。
八陽火とキリスト教徒盗賊団の対立も、この前哨戦を示す印しであり、今の対立も八陽火がその象徴に対して、順調である事を表しています。
ソドムに遣わされた方々が民の反感を買った(創世記19章4、5行)のも、裁きの刃の象徴の真の輝きなのです。
御心の真意を黙認して、大多数と対立せずに、キリスト教徒に仕立てたいと望む、自称十二教会後継者たちには、七つの教会とは一線を引いて頂きたいものです。
七つの教会は、イエスの教え通りに、神殿を肉の器とし、創造主が与えた日常の中で、自身の部屋で祈り、隠れた所を御覧になられる御父の祝福に誘うのですから、建物の教会に来るよう固執する方々とは相容れませんから。
アーメン
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