20230108

今日は形式美としては控えようかと思いましたが、たしかファリサイ派が、「ヨハネの弟子たちも断食しているが、あなた方は働くのか」とイエスに絡んで来て、イエスに「聖書を知らないのか、ダビデも腹が減れば神殿から食べたではないか」と、退けられた話を思い出し、勤務再開前のゆとりあるタイミングですから、感じる所を述べたいと思います。


真面目、不真面目の目線で見れば、御霊があると思わせる者が、全力で命をかけずに腹立たしいと感じさせた、前回の記事だったかも知れません。

また第五の手紙通り、「これは怒られるべくして神罰を招いた愚か者だ」と、むしろ納得できた方もあるでしょう。

と同時に思慮深い者になら、「主のなさる事は不思議で、どうして誰の目にも明らかな者が目に適わないのか」と、主の御心を探ろうと求めるのではと思います。

『滅びに至る門を通る者は多く、救いに至る門を通る者は少ない』と、イエスは宣言済みですから、人間の見立てと線引きに、自信を持つ事が難しいでしょう。

八陽火については、ここに来られる方々は、今は無償開示から御霊の実在を感じて、八陽火という肉は取りあえず横において、無料で読み触れるに留まっておくのが、無難なのではと勧めます。


御心に適う人を、人が見立てる事は難しいです。

聖書には多くの預言者が登場しますが、そこには出家して生きる方と、日常での仕事を持って使命に勤めた方の、パターンがあります。

ペトロたちで言えば、聖書の下地無い労働者だった使徒たちと、熱心に神殿に仕えていた過去を持つパウロは、歩みが異なるもので、ここに多い宗教者の歴史を刻む方々と、それが全く無い八陽火も、異なる下地で見る事が出来ます。

旧約聖書時代に、たしか下地の無い何らかの職人だったと思いだしますが、ヨナという預言者が選ばれ、ニネベの町に「滅びの通達」で選ばれました。

ですが彼がその職務に逃げた事で、結果的に未来のイエスの復活までの暗示を表したのですが、反省してニネベで役割を果たした彼は、主に帰依して救われたニネベの結果に、「予想通りの慈悲になった」と憤慨しました。

ある意味、普通の人の普通な感情による主との口論で、八陽火から見たら神の家族同士ならではの、日常を思わせるやり取りです。


パウロはその過去のゆえに、後にこれほどの攻撃者であった自分すら救われたと、恥ではなく誇りとして語れると、宗教者時代の自分の最大の否定者となりました。

聖霊を受けて新しくなったからこそで、残念ながら誰もが適う道ではありません。

ですが失った過去と立場の対価から、失う下地が少なく葛藤にも苛まれなかったペトロたちは、それゆえに対価が生じず、パウロは一気に聖霊の強く大きい力に至りました。

主も神の秤も、適切に御計られます。


過去に書きましたが、福音書時代の使徒たちには、御父から生誕前にイエスが聞いて選ばれた以外の、使徒としての資質を何も感じる事が出来ませんでした。

他の一般人との違いは何だろうか?と。

ですが、後になって遅れて到着立場したパウロによって、アダムの存在から御心を伺う事が出来ます。

それは善悪の知識の木の実を食べる前の、裸で無垢だった御心通りのアダムと、知識の実を食べて無垢を失わさせられ退けられたアダムです。

宗教教義の下地無く、イエスに取られるまで創造主が求めた日常に生きた使徒たちが、裸の無垢なアダムで、宗教教義と神殿主義を信じて主に仕えていた気になっていたパウロが、知識の実を食べてからのアダムです。

例えですが現代人なら、裸のアダムと服を着たアダムがアルバイトの面接に現れたなら、採用するのは服を着たアダムでしょう。

無垢なアダムは、主の御心に適う者であっても、まっさらなゆえに働くという基本的な心得から教えなければならず、知識の実を食べて土を耕す事が出来るようになったアダムは、無垢を失った代償に義務教育は修了したような状態で、準備は出来ていますから、現代人に退けられて捨てられるのは、無垢なアダムになります。

これは目覚めていない全ての人間に働く、『人々の捨てた石、これが隅の親石となった。我々には不思議に見える』や、『見ても見ず、聞いても悟らない』のイザヤ預言で警告されている、人間に働く強力な視点の呪い?によるもので、聖霊を受ける以外に解除方法が無い、無自覚な洗脳的支配です。

下地があり主に信仰を告白し、宗教活動を通じて多くの時間を主に捧げている自信ある者でも、主の設定において誰も聖霊無しでは解除する事が出来ません。

ゆえに今は、無償開示を信じるのであれば、祭儀の流れから解除の時に、パウロのように過去を対価に失い支払う心構えをして、新しくされてスタートする新人の喜びを受けられるよう、忍耐の時間に忍耐をもって整えるのが最良と勧めます。


八陽火は表している通り無償開示を通じて、神の道か神の囮の選択を、自身が無自覚な時すら発生させています。

それも望まれた使命で、人に見えずに第三者的に御覧になられる、主と見張りの者たちの重要な判断材料になっています。

主への帰属を告白する者にとって、主に一番言われたくないであろう言葉に、「お前が私を退けたのだ」があるでしょう。

目覚めていない者は、無自覚に自分が退けている事が起きてしまいますから、この言葉を受け賜らないように、『人々の捨てた石、これが隅の親石となった』の視点誘導の力を軽んじずに、光の御使いや聖霊の助力でサポートを得られるよう、祈り求めてください。

出来うるならば、祈りに宗教を通じてのワンクッションの歪みを排除して欲しいですが、これが最も難しく裸に成れないでしょうから、今は望みますに留めておきます。

ではでは。