20210906

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したい事があって外に立っていた。
ある人が、「ご覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
しかし、イエスはその人にお答えになった。
「私の母とは誰か。
 私の兄弟とは誰か。」
そして、弟子たちの方を指して言われた。
「見なさい。
 ここに私の母、私の兄弟がいる。
 誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」
(マタイ福音書12章46~50行)


イエスの母と兄弟たちは、肉の器の繋がりでの兄弟です。
ですが復活した時の御姿(ヨハネ福音書21章)、ダビデとステファノも見た玉座の御姿における父と母は、御父とその翼の方です。


イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
その時、天がイエスに向かって開いた。
イエスは神の霊が鳩(御父の翼の方)のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
その時、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
(マタイ福音書3章16、17行)


イエスを「私の愛する子」と呼べるのは、御父とその翼の方だけです。
イエスの肉の母マリアは、この時はまだ一聖霊候補であり、信仰が試されている(マタイ福音書10章34~39行)時でもありました。


イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
それから弟子に言われた。
「見なさい、あなたの母です。」
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
(ヨハネ福音書19章25~27行)


イエスは天の父の子の証明として、処女生誕されました。
御父の翼の方の象徴持ちである、肉の器の母マリアによってです。
自身で身に覚えのない妊娠を体験していた為に、イエスの肉の兄弟たちと違い、最後まで共に歩めたのでしょう。
信仰によって母マリアは、光の聖霊となられたはずですが、現在の地上では聖霊を超えた存在として崇められています。
血を流す偶像に心奪われる人もあり、酷い誤解の中にあります。


その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。
私は、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。
(ヨハネ黙示録17章5、6行)


イエス像やマリア像から、血の涙や手首からの流血といった奇跡の話題を聞きます。
このようなおぞましく品のないメッセージを、主は送られたりはしません。
知らず知らずに聖母ではなく、「忌まわしい者たちの母」に祈っていない事を願うばかりです。


あなた方がまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた事を覚えているでしょう。
(第一コリント12章2行)


彼らは木に向かって、「私の父」と言い、石に向かって、「わたしを産んだ母」言う。
私に顔を向けず、かえって背を向け、しかも災難に遭えば、「立ち上がって私たちを御救いください」と言う。
お前が造った神々はどこにいるのか。
彼らが立ち上がればよいのだ、災難に遭ったお前を救いうるのならば。
(エレミヤ書2章27、28行)


彼らは等しく無知で愚かです。
木片にすぎない空しい物を戒めとしています。
それはタルシシュからもたらされた銀箔、ウファズの金、青や紫を衣として、木工や金細工人が造った物、いずれも、巧みな職人の造った物です。
(エレミヤ書10章8、9行)


国々の偶像は金銀に過ぎず、人間が造った物。
口があっても話せず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、華がってもかぐ事が出来ない。
手があってもつかめず、足があっても歩けず、咽がっても声が出せない。
偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる(御霊無し)。
(詩篇115章1~8行)


災いだ、木に向かって「目を覚ませ」と言い、物言わぬ石に向かって「起きよ」と言う者は。
それが託宣を下しうるのか。
見よ、これは金と銀をかぶせたもので、その中に命の息は全く無い。
(ハバクク書2章19行)


主は数千年ものあいだ偶像を否定しており、当然イエスも弟子たちも同じです。
創造主イエスが造った土くれアダムには、神の息が入り人類が始まりましたが、金細工職人や彫刻家はその権威を持ってはいません。
また、一聖霊であるはずのかつての母マリアを、過度の権威者として奉るのも、神の祝福からは遠い行いになります。
聖書の御言葉によって、目を覚ましましょう。
アーメン