20210723

そこで、イエスは彼らに言われた。
「はっきり言っておく。
 子は、父のなさる事を見なければ、『自分からは何事もできない』。
 父がなさる事は何でも、子もその通りにする。
 父は子を愛して、御自分のなさる事をすべて子に示されるからである。
 ~私は自分では何もできない。
 ただ、父から聞くままに裁く。
 私の裁きは正しい。
 私は自分の意思ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
(ヨハネ福音書5章19~30行)


彼ら(ファリサイ派)は、イエスが御父について話しておられる事を悟らなかった。
そこで、イエスは言われた。
「あなた達は、人の子を上げた時に初めて、『私はある』ということ、また、私が自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられた通りに話している事が分かるだろう。
 私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。
 私を一人にしてはおかれない。
 私は、いつもこの方の御心に適う事を行うからである。」
(ヨハネ福音書8章27~30行)


多くの御霊が注がれたモーセが、口下手であった事は、同じく多くの御霊を持ったイエスが、生誕前に御父から見聞きした通りに話されていた事の、印しとしての予兆でしょう。
モーセはインマヌエル(イエス)の象徴持ちですから。
十戒の石版が一枚ではなく二枚であったのも、正面から見て左の石版がイエスで、右の石版が御父だった為です。


ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
(使徒言行録7章55、56行)


二枚の石版に言葉が刻まれてるのも、ヨハネ福音書の冒頭にある通り、『言葉は神と共にあり、言葉は神だった』の、御父と御子の関係の証しでしょう。


「~私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
(ヨハネ福音書16章28行)


イエスが生誕した事で、二枚の石版は天地に別れました。


宿営に近付くと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。
モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
(出エジプト記32章19行)


最初の石版は、アロンが持つルシフェルの象徴の働きによって、砕かれる事となりました。
ですがこれも、イエスの免れない死の印しであったと思われます。
それは再授与があった事で、御父における御子は、イエス(インマヌエル)だけでルシフェルは無いという証しとなってます。


主はモーセに言われた。
「前と同じ石の板を二枚切りなさい。
 私は、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。~」
(出エジプト記34章1行)


二枚の板の再授与は、イエスの復活の暗示です。
空間内の御使い・寝ずの番人・光の聖霊・闇の聖霊の自由意思に向けて、御父と御子の真理を、何者も揺るがす事は出来ないという宣言となっています。
千年王国の終わりの、サタンに付く天の星の三分の一の軍勢が、どのように増減するのか、今回の解釈を送ります。


アーメン