20210617

先週は体調的に大変な一週間でしたが、霊的にも大変な一週間でした。
主の御目に適う者たちに、御霊の注ぎがなされた事を期待したいです。


信仰者は聖書に敬意をもってますから、盲目的に読んでしまう事があります。
過去に信仰心の無い者が、世界最大の書物という事で第三者視点で挑戦し、ここが変だと指摘する本を何冊か読みました。
時代背景の違いなどもあり、一概に現代人の視点で判断する事は出来ませんが、確かに疑問に感じる賜物持ちや事柄がある事も確かです。
八陽火は士師記の者たちを、寝ずの番人・闇の聖霊候補の写しとして、過去に解釈してますから、信仰心の無い者のシンプルな感想にも、無条件に違和感を感じる事はありません。
そもそも、神のお気に入りだったヨブに、長所伸ばしよりも短所裁きにまい進するサタンが、突然担当するのも降ってわいた不幸でしかなく、人間の力だけで聖書を読むには、その御心が難解過ぎるはずです。
また旧約聖書には、町を彼女として激しく責める言葉もありますが、今では町単位で担当する聖霊が複数おられる事が分かっており、羊のなめし皮に書き残させて人に報せられる御心に、戸惑いに近いものも感じさせられます。
これらの事は、まだ開示レベルに無いので断片しか表しませんが、アブラハムとイサクとヤコブ、及びレアとラケルと十二人の子供たちに、天の複雑なメッセージが秘められてる事が見えて来ています。
まあこの意思表示は、人に向けて投げかけてるものではありませんが。


新約聖書になると、福音書のイエスの処刑に至る記述は重くとも、弟子たちの厳しい中にも前向きな伝導の日々には、心の糧を得る方が多いなと思います。
旧約聖書と違い、新約聖書は人々に受け入れられ易いと感じ、イエスの生誕で玉座の王が人と同じ肉の口から伝えた事で、より人の親近感を得る事に繋がっています。
イエス自身が三十年間、全く人として時を刻まれたがゆえの、人の立場への歩み寄りが慈悲と慈愛に反映を感じさせますから。


イエスも弟子たちも、良い知らせをもって来たのですが、道を整える洗礼者ヨハネが先であったように、人々からは絶えず失望感をもたらされています。
八陽火も無償開示で、「さあ天への階段を上りましょう」と燃え上がって毎回表して来てますが、この十年以上はいつも闇の権威者たちの増長と終わらない盗み見の積み重ねで、本当に天に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
聖書を特に福音を知っていても、そういう者ほど全くダメダメで、闇の権威の誘惑に負け、汚れた祈り求めでモチベーションを上げるという、とても玉座前に届けられるような者たちではないというのが、これまでの明らかな結果です。
門からノックして入りさえすれば、むしろ主の御命令から八陽火を使命に仕えさせ、誉れを得る事も実に容易かったでしょうに。
ですがそういう者ほど、主はファラオの様に頑なにして退けられますから、その御心には感謝しかありません。


「〜頑なで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなた方は、いつも聖霊に逆らっています。〜」
(使徒言行録7章51行)


脳の判断では、ステファノとユダヤ教の神殿祭司たちとの対決部分ですが、霊においては預言者対成り損ないの戦いでしかありません。
宗教宗派の種類なんてどうでもよい事で、神に繋がった者と退けられた者たちというシンプルな見方が、最も的を得ています。
主は見定める為に天地創造をされたのですから、その御目が地上から離れる事などなく、きちんと人の自由意思の判断を見極めて、導きと退けを使い分けておられます。
たとえ退けられた権力者の頑なによって、イエスや弟子たちにいばらの道が訪れようともです。


十四万四千人や、千年王国のセラフ候補者たちには、この無駄な心配は必要なく、主が頑なな心を贈られたりしない(出エジプト記4章21行)と確信しています。
アーメン