20210614

真に前向きな祈りにこそ、主にお届けする意味があります。
闇の権威利用後の清算の為や、次の闇の権威使用の為の、後ろ向きに前向きな祈りでは、イエスや弟子たちの「許せ」という指示の、たちの悪い揚げ足取りの利用者でしかなく、光の者たちに響くわけがありません。
それどころか、当たり前に不快感を感じておられ、その時の地上の代弁者が使命で伝えるという、繰り返しの歴史が旧約時代にもありました。


主を、私は避け所としている。
どうしてあなた達は私の魂に言うのか。
「鳥のように山へ逃れよ。
 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心の真っ直ぐな人を射ようとしている。
 世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何が出来ようか」と。


主は聖なる宮にいます。
主は天に御座を置かれる。
御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。
主は、主に従う人と逆らう人者を調べ、不法を愛する者を憎み、逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。


主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心の真っ直ぐな人に向けてくださる。
(詩篇11章)


闇の権威に寄り頼む負荷を、軽くする為の祈りなど価値がありません。
御使いも寝ずの番人も人の上位存在であり、主の御心と御目を畏れても、人に意味なく利用される事はありません。
それはヨブ記の、サタンのヨブ家族への試しと判定からも、伺えるはずです。
ですから真の光の信仰者は、天への裏口入学のような誘惑に、そそのかされてはなりません。


竜の尾は、天の星(寝ずの番人・堕天使)の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。
〜さて、天で戦いが起こった。
ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。
竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。
そして、もはや天には彼らの居場所が無くなった。
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、『全人類を惑わす者(誘惑)』は、投げ落とされた。
地上に投げ落されたのである。
その使いたちも、もろともに投げ落された。
(ヨハネ黙示録12章)


千年王国終わりに、現在の終末の刑期を終えたサタンが再び解放され、三分の一の勢力をもって天を攻めます。
ですがこれは、彼らを火の池に入れる前の、天の裁定を読み上げる為の光側の誘導であり、竜と寝ずの番人たちの勢いが風穴を空けるわけではありません。
人の右と左分けの裁判と同じ様に、光は光である事から過度の律儀を姿勢としており、常に悪にも礼儀を欠かさない故の成り立ちなだけです。
竜と寝ずの番人たちに判決文を聞かせれば、用済みですから数にも質にも優るミカエルたちが、天から追い払ってしまいます。
人の感情としては、全く礼儀を払う必要は無いと思わせるでしょうが、それが光の性質の為に、イエスもイスカリオテのユダが事を成立するまでは、忍耐をもって共に行動されました。
光の性質は、馬鹿正直・お人好しに写るかも知れませんが、忍耐をもって光の姿勢を貫ける者には、御使いたちが地上の新しい兄弟として、接してくれるに違いありません。


誉むべきかな、主は。