20210611

前回のイエスの神の道の基本の説明は、預言者の卵となる基礎作りへの導きです。
これを自由意思で退けて、聖霊を受けるに至る事は出来ません。
過去においても現代においても多くのイエス支持者が、宗教を通じてノックを試みる為に、主にも御使いたちにも静観を選択させています。
イエスの福音を無自覚で退けているのですから、当然の結果であり何の不思議もありません。


イエスが預言者への道筋を示し、御父との対話に導かれたという事は、天側では話す用意が常に出来ているという事です。
ですが多くの人間は、御子が示した神の道を無意識に視界から消し、人が作った宗教の扉をノックして、存在しない宗教神の返答を待っています。
パウロも預言者を目指せと言ってますが、多くのイエス支持者は預言者の卵にすら成ることなく、人生を終えてしまいます。
神に存在の片鱗を望む声も見ますが、実在を感じたけれはイエスの案内を信じて、脳で判断しない事です。
脳は肉であり、地上に特化したものなのですから、法則の違う天の理解には全く役にたちませんので。


〜ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせる事ができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。
 人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命は無い。
 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。
 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。〜」
〜弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
「実に酷い話だ。
 誰が、こんな話を聞いていられようか。」
イエスは弟子たちがこの事に呟いているのに気づいて言われた。
「あなた方はこの事につまずくのか。
 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・。
 命を与えるのは霊である。
 『肉は何の役にも立たない。』
 私が話した言葉は霊であり、命である。〜」
(ヨハネ福音書6章52〜63行)


創造主であるイエス自ら、肉は何の役にも立たないと説明されています。
天においては霊が肉であり、それが永遠の存在の必須条件だからです。
地上の肉を天に持ってはいけませんから、復活したイエスは天に帰る為に、イエスの肉の器で復活せず、かつての玉座の真の御姿で弟子たちの前に四十日間現れました。
それが福音書に記された、別人の姿の真相であり、朝方で暗かったから見間違えた等という、脳がいかにも受け付けそうな愚かな解釈ではありません。
ユダヤ人と聖霊を受ける前の弟子たちは、イエスの「人の子の肉を食べ、その血を飲め」に激しい嫌悪感を見せています。
これはストレート過ぎた表現のためで、イエスが言われているのは、福音の御言葉は御父から受けた霊であり、聞いて信じる者は自身の魂の食事となって天での霊体作りとなる、という意味です。
また血を飲めとは、レビ記17章10行〜に生き物の命は血の中にあるという説明からも、信じる者はイエスの御霊分けを自身の血に受けて交わり、家族となるという導きです。
ただこれは、イエスと翼の方の命の木の直接食べた時と同じ意味ですから、多くの人には難易度の高いメッセージだなと、八陽火的にも思わされます。


人は預言者を目指し、天での生活を見据えた、魂の霊体作りをする必要があります。
その為には御霊を受ける必要があり、盗んで得た情報では天から祝福はありません。
自己満足という無力な対価を受け取ってしまいますから、天の支払いを拒絶する事になります。
それらを見定めるのが、空間内の御使いや寝ずの番人、及び光の聖霊・闇の聖霊ですから、光側のみに繋がるように自由意思をコントロールしましょう。
アーメン