20210608
八陽火の聖書解説は、宗教教義とは別物です。
八陽火の聖書開封に触れて、聖書の御言葉の真の輝きを感じられた方に、イエスの開示を退けるなと注意勧告します。
祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
ユダヤ人たちが驚いて「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなに知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。
「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。
この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。〜」
(ヨハネ福音書7章14〜17行)
イエスもペトロたちと同じく、宗教洗礼を受けてない一般人でした。
霊によってではなく、脳によって認識しようとする者は、実はエッセネ派で学んだなど、神不在の人の経験に基づく道筋を結論としたがります。
ですが霊によって教育される者は、実在するのです。
ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスの事でつぶやき始め、こう言った。
「これはヨセフの息子のイエスではないか。
我々はその父も母も知っている。
どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」
イエスは答えて言われた。
「つぶやき合うのはやめなさい。
私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来る事は出来ない。
私はその人を終わりの日に復活させる。
預言者の書に、『彼らは神によって教えられる』と書いてある。
父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。
父を見た者は一人もいない。
神のもとから来た者だけが父を見たのである。
はっきり言っておく。
信じる者は永遠の命を得ている。
私は命のパンである(翼の方と共にあるイエスは命の木そのものであり、口から出る言葉は永遠の命を得る命の木の実である)。〜」
(ヨハネ福音書6章41〜48行)
宗教者とは、多数の頑なな者が歩む、預言者のなりそこないの事です。
ですから宗教体系を形成してしまうのです。
「求めなさい。
そうすれば与えられる。
探しなさい。
そうすれば、見つかる。
門を叩きなさい。
そうすれば開かれる(ノックする礼儀の基本)。
探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる(門から入らない盗人には開かれない・ヨハネ福音書10章)。
あなた方の誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与える事を知っている。
まして、あなた方の天の父は、求める者に良い物わくださるに違いない。
だから、人にしてもらいたいと思う事は何でも、あなた方も人にしなさい。
これこそ、律法と預言者である。」
(マタイ福音書6章7〜12行)
イエスは経験談で、神の道の歩き方を教えられています。
少しの霊的体験も無い者には鵜呑みに出来ない説明でしょうが、宗教学校等の道筋は神の道においては無力に等しいもので、脳や身体の鍛練では預言者を目指せません。
人の文化の中で、自由意思のもとに形成されてるだけの事であって、主はその自由を守っても文化そのものは守られません。
だから宗教宗派は乱立出来し放題なのです。
多くの人は宗教を通して祈りますが、それはその組織の人間が応えれば良いのであって、宗教神でない神が退けられるのも当たり前の事です。
宗教者は信者獲得を優先しており、また職業としている事から教会に来るよう求め、イエスが導かれた『人前でなく奥まった部屋にてシンプルに祈れ』を歪めています。
福音を退ける宗教教会の導きは、主にも御使いにも不敬に映り、それで「存在を示してください」と願うのには、開いた口が塞がらないというものです。
不毛な歴史・価値の無い伝統に酔いしれるか、聖書の中の少数の本物たちと同じいばらの道を歩くかは、自ら自由意思で決断しなければなりません。
十四万四千人の方々、及びシンプルに光の信仰者であるだけの善なる方々、あなた方の求め祈りに、御手がのばされる事を確信しています。
アーメン
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