20210314

こんにちは。
変化した生活サイクルに、苦戦中の八陽火です。
今日は午前中に地震があり、前の震災を思い出しました。
一週間前に、阿蘇大橋が新設開通したばかりでしたから、春先の地震にはより警戒感が増しますね。


以前にある本でしたか、福音書のイエスに関する記載は少なすぎると、指摘されてる方がおられたのを見ました。
三年半という期間を考えると、内容が短いという事です。
当時の、羊のなめし皮にインクに読み書きが出来る者となると、現代とは条件が異なりますから、弟子たちも記憶を頼りに無駄を省いて残したのではと考えてしまいます。


これらの事について証しをし、それを書いたのは、この弟子である。
私たちは、彼の証しが真実である事を知っている。
イエスのなさった事は、この他にも、まだ沢山ある。
私は思う。
その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
(ヨハネ福音書21章24、25行)


福音に触れる信仰者としては、もっとイエスの多くを知りたいとヤキモキさせる、ヨハネの判断です。
日常生活において普段はどのような方だったのか、また、多くの奇跡を弟子たちの目の前で行われたにも関わらず、ペトロは「サタンよ、引き下がれ」と言われるまでの進言を何故したのか、余りにも身近すぎた存在ゆえの慣れによる侮りなのか、想像が膨らみます。
後世の者たちが知れるイエスは、ある意味、厳選された情報だけのイエスですから、戦前の現人神と同じ様に情報不足から神秘性が増し、それぞれの思う理想像のイエスを形成しているのではと思わされます。
これは特に弟子たちの手紙に触れる者たちからも感じられ、弟子たちはハッキリと顔か思い浮かぶ者たち向けに書いているにも関わらず、会った事がない現在の信仰者が、憧れと尊敬から自身向けに書かれていると受け取る、暴走的なファン心理にも危惧を覚えます。
イエスと対立したファリサイ派も、モーセの弟子と言い張って、正統後継者きどりで権威をイエスに振りかざしてますから、時間の流れの中で起きうる事柄には、客観的な視点を失わずに見定める事が大切になります。
当時の弟子たちは、多くの人たちには新興のユダヤ教イエス派とも勘違いされていたはずで、ですからこそ「イエスを信じる」と告白する事には、現代とは比較にならない価値がある訳で、独裁国家以外での今の信仰告白が、当時と同じ重みで量られるはずがないでしょう。


新約聖書を読むと、イエスや洗礼者ヨハネや弟子たちが、対立する信仰者たちともきちんと向き合ってる事が分かります。
そして故に思わぬ御言葉の表わしや奇跡にも繋がり、敵対者のノックのおかげで皮肉にも開示された真理には、盲目的な信仰視点での危険性を学ぶ事が出来ます。
闇の故に光の素晴らしさが鮮明となるのですから、対比での理解には大いに役立つものです。
最もこれは結果論であり、闇の権威がもたらす精神的苦痛を思うと、率先して試みれる事ではありません。
14万4000人の方々には、自由意思での神の道の選択を、恐れずに進んでほしいと切に願います。


アーメン