神の秤に委ねる

ペトロは外にいて中庭に座っていた。

そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。

~その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。

すると直ぐ、鶏が鳴いた。

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。

そして外に出て、激しく泣いた。

(マタイ福音書26章69~75行)


食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。

~三度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」

ペトロはイエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。

そして言った。

「主よ、あなたは何もかも御存じです。

私があなたを愛している事を、あなたはよく知っておられます。」

(ヨハネ福音書21章15~17行)


神の秤にもとづき、精算して聖霊を受けるに至るペトロの話です。

十二使徒の頭であっても、特別扱いはありません。

夜逃げで踏み倒しや、ちゃぶ台返しで強制押し切り等、特別扱いしか認めないといった自由意志の選択は捨て去るべきで、正々堂々と神の秤と向き合い委ねる姿勢で行く事です。

八陽火も例外なく常に神の秤と向き合い、罰も前進とも共に人生を歩んでいるのですから。


辱められた女よ、何をしているのか。

緋の衣をまとい、金の飾りを着け、目の縁を黒く塗り、美しく装ってもむなしい。

愛人らはお前を退け、お前の命を奪おうとする。

まことに、産みの苦しみの様な声が聞こえる。

初めて子供を産む女の様な苦しみの声が、あえぎながら手を差し伸べる娘シオンの声が。

「ああ、殺そうとする者の前に私は気を失う。」

(エレミヤ書4章30、31行)


「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鳥が雛を羽の下に集める様に、、私はお前の子らを何度集めようとした事か。

だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。

言っておくが、お前たちは『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時(七つの教会の終末)まで、今から後、決して私を見る事がない。」

(マタイ福音書23章37~39行)


娘シオンはエルサレムの事で、イエスの翼の方です。

この方は博愛主義的な方の為に、ラハブやルシフェルを例外としても、寝ずの番人や全ての人々を子らとして、受けとめられます。

それが光と闇の衝突となり内乱を生み、預言者たちやイエスも力で退けられました。

ゆえの主の怒りです。


「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。

それで、『出て来た我が家に戻ろう』と言う。

戻って見ると、空き家になっており(バビロン捕囚)、掃除をして、整えられていた。

そこで、出掛けて行き、自分よりも悪い他の七つの霊(闇の燭台)を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。

そうなると、その人の状態は前よりも悪くなる。

この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

(マタイ福音書12章43~45行)


イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。

このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

(マルコ福音書16章9行)


クリスチャン盗賊団は、闇の燭台の第五番目、盗み教会のメンバーが刈り入れた麦束です。

八陽火は集めておらず、光は闇の燭台の財産を奪ったりも受け取ったりもしません。

闇側のご都合主義は、闇側で使われる論理であり、光側が習う事もありません。

八陽火がブログを再開せず、御父と御子の翼の方々の件を、仲間宛てのメールで知らせて入れば、今も変わらず盗み見得に酔いしれていたはずです。

呆れる程の数多くの聖書解釈を退け、同業者を抜きん出たと高ぶった事を、清算抜きで神の秤を振り出しに戻そうという試みは、全く勝手過ぎて頂けません。

また、再び千年王国のエルサレムに、闇の燭台の七つの悪霊が入り込む事は出来ず、七つの教会はその関係者に門を開いたりはしません。

闇の燭台の、過去の成功例に基づくと分かりきった作戦は阻止します。

鳥インフルエンザでの殺処分が起き、また山に火が移り拡がってますが、同じ過ちの歴史を繰り返す選択はありません。


この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。

その数は海の砂の様に多い。

彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。

すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

(ヨハネ黙示録20章7~9行)


エルサレムに、光も闇も関係なく人々が住まう事が出来た時間は、終わりに近付いています。

闇の燭台の財産が置かれた事は、過ぎ去った過去の話で、マグダラのマリアが浄められたように、七つの悪霊が戻る事は出来ず、入る理由の成立も阻止します。

盗賊団を退けた件で、主から怒られた事はなく、きちんと事は見量られていると判断できています。

盗賊団においては、人同士に委ねて主には出て来ないでほしいといった所でしょうが、闇の権威の存在が明らかな以上、八陽火も盗賊団も主にこそ委ねて御心を伺う時です。


アーメン