善悪ではなく宗教で隣人を決めたが故に

モーセは神に尋ねた。

「私は、今、イスラエルの人々の所へ参ります。

彼らに、『あなた達の先祖の神が、私をここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か?』と問うに違いありません。

彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「私はある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うが良い。『私はある』という方が私をあなた達に遣わされたのだと。」

神は、更に続けてモーセに命じられた。

「イスラエルの人々にこう言うが良い。

あなた達の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなた達のもとに遣わされた。

『これこそ、とこしえに私の名。

これこそ、世々の私の名』。~」

(出エジプト記3章13~15行)


~イエスは言われた。

「私は去って行く。

あなた達は私を捜すだろう。

だが、あなた達は自分の罪の内に死ぬ事になる。

私の行く所に、あなた達は来る事が出来ない。」

ユダヤ人たちが、「『私の行く所に、あなた達は来る事が出来ない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。

「あなた達は下のものに属しているが、私は上のものに属している。

あなた達はこの世に属しているが、私はこの世に属していない。

だから、あなた達は自分の罪の内に死ぬ事になると、私は言ったのである。

『私はある』という事を信じないならば、あなた達は自分の罪の内に死ぬ事になる。」

彼らが、「あなたは一体、どなたですか?」と言うと、イエスは言われた。

「それは初めから話しているではないか。

あなた達については、言うべき事、裁くべき事がたくさんある。

しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方(御父)から聞いた事を、世に向かって話している。」

彼らは、イエスが御父について話しておられる事を悟らなかった。

そこで、イエスは言われた。

「あなた達は、人の子を上げた時に初めて『私はある』という事、また、私が、自分勝手には何もせず、ただ、御父に教えられた通り(聞いて書記した巻き物通り)に話している事が分かるだろう。

私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる(イエスの玉座は御父の右側に、使徒言行録7章56行)。

私を一人にはしておかれない。

私は、いつもこの方の御心に適う事を行うからである。」

(ヨハネ福音書8章21~29行)


人間においては、ただただ有神論者である事が、『私はある』と名乗られた方の御心を、最も受け止めきれています。

その『私はある』という方と、御父への信仰心が重要であって、世に属する宗教宗派への宗教心は、信仰心とは区別されなければならない言葉です。

宗教心は神への信仰心でもあるというのは適切ではなく、神の道からの脱線に繋がらないよう、明確に整理されなければなりません。

宗教は世に属する人の道であり、自由の結果としての文化でしかありませんから、信仰心とは聖別して理解する必要があります。

新約聖書を読めば、イエスも弟子たちも自らを宗教とは呼ばず分類せずで、福音書にも手紙にもこの表現が出てくる事はありません。

目が覚めるはずです。

開かれてない、脳がひき起こす現象の、暗黙の了解の落とし穴ですから。


神と、私はあると名乗る方の上の実在を信じ、信仰心ある有神論者なら、神の道を歩けます。

宗教心の有無は問われていません。

光の道、善行は人々の普通の日常で量られるのであって、その為に創造主は肉の器を魂に与えられました。

人生を歩く理由はそこにあり、普段の普通の日常での誘惑の退けで光の道は進め、やがて聖霊を受け神の道へと上がります。

十二使徒たちも、神殿祭司と違い、普段は普通に仕事をし、必要な時に民家で使命を果たしていたと研究者たちには見られています。

普段の普通の日常の選択が大事であり、宗教者として立ち上がる事や属する事は重要ではありません。

的外れであり、いくら神からの対価を待っても、約二千年の歴史通り、聖霊の祝福は訪れません。

大事な事は普段の日常生活という、創造主が与えられた人生です。

ですからその日常生活の中の誘惑で、クリスチャン盗賊団は高い代償を払う事となったのですから。


主なる神は言われた。

「人は我々の一人の様に、善悪を知る者となった(善悪の分別が出来る準備が整った)。

今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。」

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させる事にされた。

こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守る為に、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

(創世記3章22~24行)


神は命の木の実の盗み食いを認められていません。

イエスは永遠の命について道案内出来ると言われてますが、同時に門からきちんと入れとも警告されています。

地上での人の歴史が始まる前から決まっている事であり、盗みの力で命の木の実に至る事は出来ません。


「~あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台を見たが、それらの秘められた意味はこうだ。

七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」

(ヨハネ黙示録1章20行)


『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が次の様に言われる。~』

(ヨハネ黙示録3章1行)


また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。

これは神の七つの霊である。

(ヨハネ黙示録4章5行)


天使たちは大声で言った。

「屠られた小羊は、『力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美』を受けるに相応しい方です。」

~「玉座に座っておられる方と小羊とに、『賛美、誉れ、栄光

そして権力(右の手に七つの星を持つイエスが八番目の証し)』が、世々限りなくありますように。」

(ヨハネ黙示録5章12、13行)


光の七つの御言葉、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美以外に、八番目としてイエスの『権力』があります。

そして賛美と誉れと栄光と権力で、七つの御言葉を天使たちが分けて言ったのは、イエスと七つの星が四体構成のケルビムであり、その二つのグループで成立しているからです。

そしてケルビムである事は、命の木の実の盗み食いを阻止する使命がありますから、クリスチャン盗賊団は誉れ以外の教会でも退けられ、数千年の経験を持つ上位存在の寝ずの番人の誘惑に、完全に負けたと分かるはずです。

説教泥棒の記事や、車泥棒の赤ちゃん車内置き去り母親に説教など、人の言葉でも清算への道を促して来ましたが、イエスや弟子たちの揚げ足取りに希望を持つようでは、響かなくて当たり前でした。


盗賊団絡みでの開示は本当に暗くなり、御言葉の本来の輝き側にシフトしなければ、寝ずの番人の思惑通りの減光開示ですから、盗みに魅せられた者たちとの御縁には、本当に迷惑しかありません。