神の道は特定団体にあるは誤り
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなた方の天の父のもとで報いを頂けない事になる。
だから、あなたは施しをする時には、偽善者たちが人から誉められようと会堂や街角でするように、自分のラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきり言っておく。
彼らは既に報いを受けている(宗教教師の自己満足という報酬)。
施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない(右と左に別れる裁判、マタイ福音書25章31行~)。
あなたの施しを人目につかせない為である(人の身で空間内の御使いの様に奉仕する事が将来に繋がる為)。
そうすれば、『隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いてくださる』。」
「祈る時にも、あなた方は偽善者の様であってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
はっきり言っておく。
彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所(肉眼外)におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた事を(空間内から)見ておられるあなたの父が報いてくださる(すなわち見せる印しの本人にも分からない異言の祈りは、見せる事のみで報いを受けている)。
また、あなた方が祈る時は、異邦人の様にくどくどと述べてはならない。
異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる(宗教者が異言の印しを求める理由)。
彼らのマネをしてはならない。~」
(マタイ福音書6章1~8行)
イエスは宗教的活動を推奨されてはいません。
ソロモン神殿が主に退けられた様に、主は地球を教会として創造されたからです。
そこに宗教宗派が教会を立てるのは、主の教会内に個別の教会を立てる事になります。
ですから主は、宗教を育てる事も守る事もされて来られませんでした。
主が一貫されたのは人の自由の結果を見定める事で、その宗教宗派が認知を得た訳ではありません。
既に地上の人々は、主の教会内で人生を歩いているのです。
宗教宗派は卒業目的の専門学校であり、その為の集いとしてあるべきですが、職業とした者たちは地上の無二の道の様に宣伝しますから、御心にそってはおらず個々の神殿造りには弊害を生んでいます。
イエスは神殿として器を魂に貸し出されてるのですから、信仰を個人個人の全力で育てる事から、逃げては前に進めません。
オリンピックに代表される様に、人は優秀な身体でも、または脳のポテンシャルでも競いあいます。
あたかも神の祝福を得てる様に人の目には映りますが、ソロモンの願いで知識を主が与えられた様に、主においては優秀を作る事など造作もない事です。
イエスが三年半の活動期間、自らもホームレス状態となり恵まれない人々に目を向けられた様に、器を自由に創造修正できる主においては、器の性能による必然的な成功結果など、何のアピールにもなりません。
それよりも弱い立場で悪に染まらず、誘惑を退け信仰を保つ者こそ、主が目をかけられる人間であり、サタンや寝ずの番人の様な裏切り者となる可能性の無い者ですから、世の勝ち負けは右と左の裁判に何の影響力ももたらしません。
大事な事は光側に来るか、闇側に向かうかを自由意志で決める事で、地上で強制的に食物連鎖に組み込まれる様に、人は真の勝ち組につくか、負け組につくかの選択から逃れる事は出来ません。
「その日、その時は、誰も知らない。
天使たちも子も知らない。
ただ、父だけが御存知である。~」
(マタイ福音書24章36行)
御父は唯一の時の権威者です。
人々は時の流れを体感しても、実際に時間を見る事はできません。
ですが、時間は表通りにも奥まった部屋にも流れており、いつ何処にいても常にその者と共にあります。
時間でもある御父は、常にあなた方と共にあり離れる事はありません。
ですから自己満足の追求を回避できるのなら、イエスの教えに耳を傾け実践するべきです。
また宗教教師は、人を集めたい欲求から、建物の教会しか道が無いと歪めて伝えてはなりません。
八陽火は有神論者の無宗教者と述べてる様に、職業教師とは相容れず、その道を習う事はありませんから、宗教者は覚悟を持って聖書開封に触れ、その自由意志の選択を主に御覧頂くべきと思っています。
また各宗教徒の方々は、イエスはファリサイ派サドカイ派という種類で否定されたのではなく、価値観で退けられた事を知らなくてはなりません。
貴族の様に階級で振る舞うクリスチャン達がいますが、イエスを処刑に追いやった神殿祭司と同じ価値観で、宗教宗派の違いで主は線引きされませんから、亡びずに今も存続している事に、内側にいる者たちは福音を無視してマヒしてるなと感じます。
人間は目覚めない限り、自然に御言葉を歪めてしまいますから、クリスチャンと名乗る者同士で満足せず、真に主に向かい認められる信仰に切り替えるべきです。
思った通り、クリスチャン盗賊団の言葉には御霊が乗ってきませんから、主や御使いたちがどの様に盗賊団を見ているか、はっきりと伺え何の驚きも意外性もありません。
響きだけの満足感を追わずに、福音に習う真の信仰者に成る時です。
その様な方々こそ、八陽火は誉れを持って、紡がせて頂きます。
アーメン
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