創造主は天上から天と地に降られた
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。
人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない(明確な光の宇宙への生誕の事)。」
ニコデモは言った。
「年を取った者が、どうして生まれる事が出来ましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれる事が出来るでしょうか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。
誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。
肉から生まれた者は肉である(人間の事)。
霊から生まれた者は霊である(神々に至る御使いの事)。
『あなた方は新たに生まれねばならない』とあなたに言った事に驚いてはならない。
風(御使い、詩編104章4行)は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆その通りである。」
するとニコデモは、「どうしてそんな事があり得ましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんな事が分からないのか(現代の聖書教師も同じ)。
はっきり言っておく。
私たちは知っている事を語り、見た事を証ししているのに、あなた方は私たちの証しを受け入れない。
私が地上の事を話しても信じないとすれば、天上の事を話した所で、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない。~」
(ヨハネ福音書3章3~13行)
イエスは明確に人間の状態を卒業し、魂は御使いを経て神々に生まれなければならないと、言われています。
人間は地上の存在であって、天上の存在としても引き続き継続するという選択肢は選べないからです。
人間の状態も主に差し出す、失うべきものです。
創造主に、肉の器は返還しなければなりません。
魂が成長する為に貸し出されてる器ですから、サタンやラハブの美学で、模様を入れたり改造したりするのは、好ましくありません。
ですが人生が茨の道で、苦労が刻み込まれた器なら、王は貸し出した意義を強く見いだされ、祝福をくださるでしょう。
愚かしく新品に見せようとする努力や、過剰に着飾り欺こうとする方向性には、強い怒りを買うだけです。
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇(サタン)が深淵(ラハブ)の面にあり、神の霊(イエスの翼の方)が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光(イエス)あれ。」
こうして光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼(御使いの時間)と呼び、闇を夜(寝ずの番人の時間)と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。
第一日の日である。
(創世記1章1~5行)
『光あれ』は、「イエス来なさい」と、神がこちらの宇宙に御呼びになられた言葉です。
ゆえにイエスは、「天から降って来た」と言い、「人の子の他には天に上った者はいない」と、真実を証しされてるのです。
御父は右の玉座のイエスを、光と呼んでいます。
イエスとは肉の器の呼び名ですから。
福音書を読めば、イエスがどれだけ御父が大好きで、心が通じてるのかが分かります。
その信頼する御父が、光と呼んでこちらの宇宙に来させてるのですから、この光という言葉が如何にイエスにとって大事な名か、親子愛からも分かるはずです。
人がイエスの御霊に、御父と同じ呼び方で語りかける事には、八陽火には抵抗があります。
この名で祈り求める事には、試しが発生しますから、敬虔さを失わないでほしいと願います。
初めに言葉(光=イエス)があった。
言葉(光)は神(御父)と共にあった。
言葉は神であった(光の宇宙に居た事の必然)。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言(創造主=イエス)によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言葉の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇(サタン)は光(イエス)を理解しなかった。
(ヨハネ福音書1章1~5行)
アーメン
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