光の姿勢と行動の重要性

「はっきり言っておく。

羊の囲い(現代では七つの教会=七つの籠のパン)に入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

門から入る者が羊飼い(教師)である。

門番(イエス、御使い)は羊飼いに門を開き、羊(光の信仰者)はその声を聞き分ける(耳ある者は霊が諸教会に告げる事を聞くが良い)。

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。

羊はその声を知っているので、ついて行く。

しかし、他の者の声には決してついて行かず、逃げ去る。

他の者たちの声を知らないからである。」

イエスは、この例えをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何の事か分からなかった。

イエスはまた言われた。

「はっきり言っておく。

私は羊の門である。

私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。

しかし、羊は彼らの言う事を聞かなかった。

私は門である。

私を通って入る者は救われる。

その人は、門を出入りして牧草を見つける。

盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする為に他ならない。

私が来た(生誕)のは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受ける為である。

私は良い羊飼いである(玉座の王では門番、生誕した地上では羊飼い)。

良い羊飼いは羊の為に命を捨てる(旗竿の青銅の蛇はイエスの十字架刑の預言、民数記21章4~9行、ヨハネ福音書3章14行)。」

(ヨハネ福音書10章1~11行)


旗竿(十字架)に掛かられたイエスを仰ぎ見、信じる者は炎の蛇(元ケルブのルシフェルの象徴)の毒から命が救われます。

アダムとイブを騙したサタンの蛇の毒を、イエスの蛇は解毒できる血清をお持ちだからです。

旗竿のゆえにぺトロたちは、イエスの十字架を信仰の象徴として、強く用いています。

ですが青銅の蛇ネフシュタンで、イスラエル人が偶像崇拝に発展して御心から離れた様に、イエスの十字架は心内に掲げるに留まるのが望ましいです。


闇の燭台が掲げる七つの権威の内、盗みの力が八陽火には及びます。

八陽火に集まる者は盗みの誘惑という試練にあい、寝ずの番人に信仰を試されます。

ヨブの時と同じで玉座の王の許可がある試練ですから、本当にその者の自由意志の選択が試されます。

玉座の王は、自らを死に導いたサタンの権威を真に嫌悪され退けられますから、イエスを愛する者なら説明不要で同じ様に退けられるはずです。

イスカリオテのユダにサタンが入って処刑に至った事を、光の信仰者なら知っている事ですから、闇の権威に寄り添い寄り頼む者となって、イエスに信仰を告白する愚行を侵して満たされてはなりません。

また清算しながらなら大丈夫などと、光の姿勢を試す様な信仰で上位存在を侮らないよう願います。

主や御使いの沈黙は、人々に油断を生むようですから。


イエスはファリサイ派サドカイ派の説得を試みませんでした。

奇跡を持って支持者を集め、組織で自身の派閥を大きくすれば、簡単に組織を乗っ取れるにも関わらず、その選択肢は最初から除外されていました。

後世の人々から見れば、ファリサイ派サドカイ派は、主がイエスである事を誤解していただけとも思えるはずです。

主の声を聞けない者なら、普通に起こりがちな事ですから。

ですがイエスはそれを解くつもりはありませんでした。

唯一、パウロだけが解かれましたが、それは身内からユダがサタンに取られた為で、相応の分を相手の身内から取り返されただけでした。

光は光らしく姿勢を崩さず、この戦いに挑まれてますから、光の信仰者も誘惑に負ける事なく、光らしくの選択を心掛けなくてはなりません。

たとて闇側が闇らしく、卑怯なズルのオンパレードであったとしても。


パウロは、漫画家の小林よしのり氏が著書で書いていた、純粋真っ直ぐ君と呼べるキャラクターでしょう。

多くのファリサイ派が確信犯の権威主義者でしたが、パウロは本当に誤解してるだけの暴走する者であった為に、主は取られパウロは不利な立場の真実に目覚め受け入れられました。

主は上位存在の更なる上位存在ですから、人の心内を知り量られ、真の判断を下されます。

神と御使いたちも、それを見ておられるのを承知の上でですから、お立場からの感情先行の処理はありません。

玉座の王は、サタンの様に独裁者の権利のように振るまわられる事は無いからです。

しばしば盗賊団の理解からは、何故か玉座の王を、独裁者として崇めてるように感じられますから、やはり闇と光の区別がついてないのかと、新しい人たちが誘惑負けしないか心配になります。


イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

大勢の金持ちがたくさん入れていた。

ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び集めて言われた。

「はっきり言っておく。

この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。

皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

(マルコ福音書12章41~44行)


当たり前ながら主は、人の財産を得ても何の意味もありません。

地上の人々が従う法則の下に身を置かれてはおらず、価値観も優先順位も違いますから、金銀財宝など何の役にも立ちません。

玉座の王が求められておられる事は、光の姿勢からの行動結果です。

主が見えずとも聞けずとも、主がおられると信じて行う光の姿勢こそが喜ばれる事であって、金持ちの八方美人の保険な願掛けに振り向かれるはずがありません。

上位存在の中の更なる上位存在としての知性で、適切に見分け判断されますから。


さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。

~折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに来て、帰る途中であった。

彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。

すると、霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。

~宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗って側に座る様にフィリポに頼んだ。

~フィリポは口を開き、聖書の箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。

~フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。

宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びに溢れて旅を続けた。

(使徒言行録8章26~40行)


宗教に集わなくとも、善行に富み光の姿勢を無自覚に行っている者なら、空間内の御使いが心に留め、玉座の王に知らせて光に集められます。

この様に集められた者は、この異邦人以外にもあり、主の着眼点と優先順位から、王の徹底した善悪主義を受け止めなければなりません。

人は善悪が混じりあう存在ですから、これが中々分かりません。

光と闇は必ず別れる未来に進むのですから、イエスが世の弱者に必要とされて来られた(マタイ福音書9章9~13行)様に、現代の勝ち組はラハブに集う(ヨハネ黙示録18章3行)事から、勝ち組を神からの祝福と間違えてはなりません。

忍耐の時ですから。


光の選択、光の行動が大切です。

それが御心に叶い、招かれます。

人間が光と闇を振るいにかけて選ぶ上から目線は、ほとんど不可能でしょう。

多くの望みを、寝ずの番人に見抜かれる事なく、歩まなくてはなりません。

大切な事は一人のやもめと同じく、光の選択肢が見えたら、そこに進む事ですから。


アーメン