20221005

やっと涼しい夜になってきました。

クーラーが苦手な身としては、6月頭から本当に長かったです。

昔と違い、一年の三分の一の夜が、クーラー無しでは厳しい夜ですから、本当に阿蘇市に引っ越したくなりますね。


この時から、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

「主よ、とんでもない事です。

そんな事があってはなりません。」

(マタイ福音書16章21、22行)


イエスの間近で多くの奇跡を見ていたにも関わらず、なぜペトロは頭ごなしに否定できたのでしょうか。

近すぎる関係性が、良くいえばイエスマンに陥らなかったとも見れますが、真意を問わずに秘書のように助言するペトロには、未来の私たちから見れば大変な驚きを覚えます。


一同が群衆の所へ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。

「主よ、息子を憐れんでください。

てんかんで酷く苦しんでいます。

度々火の中や水の中に倒れるのです。

お弟子たちの所へ連れて来ましたが、治す事が出来ませんでした。」

(マタイ福音書17章14~16行)


悪霊を追い出す権威を与えられ、町々に遣わされた弟子たちでしたが、まだ聖霊を受けてない事から、失敗もあったようです。

この時の権威は、裏切る事が分かっていた、イスカリオテのユダも受けられた『試しの御霊』ですから、本物の権威者のようには行かないのも当たり前です。

試しの御霊は、宗教者や無神論者に限らず、命ある者なら誰でも受けられる霊で、空間内の見張りの者たちが、担当する者の見極めの為にこそ、起こる現象と分かります。

ですから成功も失敗も、その後の心理状態こそ、見張りの者たちが見極めたい事と知れます。


福音書を読むと、聖霊を受ける前の十二使徒たちが、イエスから多くの御叱りを受けているのが分かります。

正直言って、福音書の時の使徒たちからは、他の多くの者たちとの違いが分かる資質を、八陽火は見出だす事が出来ません。

御父が報せ(ヨハネ福音書17章6行)、それに従いイエスが取られたという御業の経緯ゆえに、信じる事が出来るという感じでしかないです。

普通なら使徒言行録の時の弟子たちと同一人物とは、到底信じる事が出来ませんが、目が開かれる実体験者としては、聖霊受洗による変心と実力の変化を、当たり前として信じられますから。

この事から、聖霊を受ける前の者の信仰の見極めは非常に困難で、御霊によらなければ人の力では判断が難しいという事実を、強く悟らされます。


ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスの事で呟き始め、こう言った。

「これはヨセフの息子のイエスではないか。

我々はその父も母も知っている。

どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」

イエスは答えて言われた。

「呟き合うのはやめなさい。

『 私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとへ来る事は出来ない。』

私はその人を終わりの日に復活させる。

預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる(イザヤ書54章13行)』と書いてある。

『父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。』

父を見た者は一人もいない。

神のもとから来た者だけが父を見たのである。

はっきり言っておく。

信じる者は永遠の命を得ている。

『私は命のパンである。』~」

(ヨハネ福音書6章41~48行)


イエスや十二使徒たちと同じ無学な方々、祈り求めれば空間内の者たちによって導かれます(マタイ福音書7章7~12行)。

八陽火も生まれながらの無宗教者として、導かれ育てられ無償開示に至り、なお見えない山の頂を目指して、神の道を歩けています。

イエスがイザヤ書を引用して示した、『神によって教えられる』は事実です。

そこに人によって形成された教義は、全く必要ありません。

真理は漫画でもフィクションでもないからです。

祈り求めて、空間内の光の兄弟たちにこそ、ノックしましょう。

そうすれば人間から教義ではなく、真に聖霊を受けられる道に導かれます。

人からの慰めや誉れや共感の誘惑に打ち勝ち(マタイ福音書6章1~13行)、見えざる方々の御手のサポートにこそ、寄り頼みましょう。

アーメン