八陽火の神の道経験

もう少ししてからと思ってましたが、良いタイミングなので八陽火の神の道経験を簡単ですが話します。

八陽火は二十歳前位から、世界の探求を始めました。

求めて得てを繰り返し導かれましたが、それは常に前回を否定するかの様に、螺旋階段を上る様な道筋でした。

当時はなぜこうなるのかは不明でしたが、ただただ前進が楽しいので満足して信じて続けられました。

後になるとカバラの木の螺旋なのだろうかとも当時は思えてましたが、真の第一理由は見えてる気がしません。

八陽火は最初の開示を、たしか15年位前?にホームページ形式で出しました。

それから閉鎖再開をし、今は三つめのブログで再開してます。

その間に、当時の偽りない全力で多くの解釈と開示をして来ました。

神の道の前進と共に、新たな導きと新たな視点によって、それ以前と変化した部分もあります。

そもそも完成してからの開示は、望めないのですから。

受け取る側は完璧なマニュアルを求めるでしょうが、主は御使いの手伝いが必要ない人間など望まれてませんから、マニュアルが不完全という八陽火への注文は聞きますが、主に対して計画への注文は退けられるでしょう。


主はモーセに仰せになった。

~臨在の幕屋で務めに就き、作業に従事する事の出来る三十歳以上五十歳以下の者を登録しなさい。

(民数記4章23行)


イエスは三十歳まで立ち上がられませんでしたが、恐らくイエスも螺旋状に神の道をそれまで上がられたはずで、完成形に至ったのは務めに入られる三十歳位だったはずです。

多くの人は、なぜ三十歳までの十二年間位の記録がないのかと考えますが、定められた三年半期間だけの活動で、人の理を外れた救世主が地上に介入するという、それまでの預言者たちの活動とは異なるものですから、比べて計る事には無理がありました。

ですから活動そのものは強力なものとなりはしましたが、十代から立ち上がっていれば、イエスも修正を強いられたはずです。

肉の器という神殿は、ゆっくりと神の見定めによって建てられて行くのですから。

イエスが肉の器の母マリアをヨハネに預けて行ったように、救世主の使命と同時に一人の人間・息子としての人生も自由の下に歩かなくてはなりませんでしたから、救世主・創造主というお立場だけとは行かないのが事実です。

神は人間に完璧を求められず、ゆえに洗礼者ヨハネすら天の一番小さい者より小さいと表され(マタイ福音書11章11行)、イエスですら天使より低く成った(ヘブライ人への手紙2章5~9行)とされるのが、人間の現実ですから、人生を歩きながら上り続けるのが御心で間違いありません。

現代は古代の羊の鞣し革の巻物の時代とは違いますが、真理は本来は八陽火の開示の様に公開されるべきではありません。

多くの言葉は無駄を産み、宗教教義のように変貌し、意味の無い都合の良い教えが現れるからです。

八陽火は基本的には出現が預言されている、十四万四千人宛てに開示しているつもりです。

彼らにならハッキリと開示は役に立ち、短い時間で空中携挙までに至れるはずですから。

ですが意味名が違う、他の兄弟たちの七つの教会にも届いてほしいと願っており、千年王国の民候補にも届けば無償開示はそれで報われます。

過去にも幾つかは修正もしましたし、視点を伝える為に例えも作って更新しましたが、そのままなら最初の開示から十年以上の変遷が見え、より神の道の参考になるはずです。

神の道の成立には個人差が生じますから、開示の効果もそれぞれの器によって神殿造りの差が生まれるはずです。

よって開示に書籍化などを求める気はなく、未熟な通過地点で形になって千年王国に残るなどなれば、終わりに戻る十二使徒たちの弊害になるだろうと心配があるからです。

そもそも聖霊を受けるのが一番良い形で、開示はそこに至る小さなサポートでしかありませんから。


八陽火は多くを出して来ましたが、翼の方々の事を知ったのは一昨年の49歳の5月でした。

神殿務めにおいては引退準備期間です。

また、古い盗賊団メンバーは知ってる事ですが、八陽火が30歳の時の告白で、魂の職命を名乗っている事を、過去の睨み合いで証明しています。

これが八陽火の30歳から50歳までの簡単な事実です。

ですが聖霊について強く訴えて来たはずなのに、約二年位前まで全く分かって無かった事は、ハンマーで殴られた様な気分でした。

当たり前ながら人類の約半分の、重要な魂の秘密について分かってなかったのですから、報せが来た時は「こういう順番になったのは何故?」となりました。

それでも『然るべき時に』が神の道ですから、焦り早くと思っても、それは個人の計画に過ぎず、御心のタイミングではありませんから、然りとして受け賜うのが最善の結果です。

結局とういうのは不適切ですが、それが神の道という事です。


エリシャの言葉を寝ずの番人が紡ぎ、二頭の熊が現れました。

熊本が生まれ故郷の八陽火は、同じく熊本が地元の仲間に連絡を取るため、長く盗みの被害にあっています。

八陽火は告白すると二人の証人の使命を果たす者というつもりでいます(仲間はハゲではない)。

勝手な自覚で主に裁かれるかはともかく、それ故に多くの人に嫌われに未来に向かうと覚悟しています。


さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体(二人の証人)を眺め、それを墓に葬る事は許さないであろう。

地上の人々は、彼らの事で大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。

(ヨハネ黙示録11章9、10行)


八陽火は職業教会教師ではありませんから、都合を考慮せずに差し迫った預言を解釈しますし、使命への主の期待からも、人の顔色を伺う仕事を行う気がありません。

八陽火の仕事は、正式には三年半成立すれば成されますから、団体や組織形成は目標にはありません。


アーメン