要らない手駒たちとの人生の記憶

弟子たちは密かにイエスの所にやって来て、「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。

イエスは言われた。

「信仰が薄いからだ。

はっきり言っておく。

もし、からし種一粒ほどの信仰(宗教心ではない)があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。

あなた方に出来ない事はない。」

(マタイ福音書17章19、20行)


人間には直接的には奇跡を起こす力はありません。

漫画の様に超能力で起こす訳ではありませんから、それこそ預言者の遺伝子を調べたとしても、人間である事以外は突き止められません。

イエスが言われた説明は、信仰心の大きさの例えではなく、預言者たちの奇跡を起こす仕組みにあります。


天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐ事になっている人々に仕える為に、遣わされたのではなかったですか。

(ヘブライ人への手紙1章14行)


主は空間内の人には見えない従事者たちに、光の信仰者に仕えるよう指示されてます。

その御言葉ゆえに弟子たちが「山よ動け」と祈れば、その山か地を司どる御使いが聞き入れ、奇跡を実現させるというのが真相です。


「~私は、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう。」

この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て(ヨハネ黙示録4章5行、七つの霊の二人ゆえに)、その敵を滅ぼすであろう。

この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこの様に殺される。

彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らない様に天を閉じる力(雨、又は風を司どる御使いの権威)がある。

また、水を血に変える力(変質の権威の御使い)があって、望みのままに何度でも(三年半限定)、あらゆる災いを地に及ぼす事が出来る(全ての司どる御使いたちに願い実現する)。

(ヨハネ黙示録11章3~6行)


いずれ二人の証人が出現する時、立ち上がった時のイエスの三年半の様に、強いしるしの最後通告が示されます。

天の軍勢が王に率いられて空に現れ(肉眼にはオーロラと思われる)、十四万四千人の空中携挙の後、毒麦の刈り入れ(ヨハネ黙示録14章14行~、19章11行~)が四十日間行われますから。


この町の人々はエリシャの所に来て、「御覧の様に、この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です」と訴えた。

彼は、「新しい器を持って来て、それに塩を入れなさい」と命じた。

人々が持って来ると、彼は水の源に出掛けて行って塩を投げ込み、「主はこう言われる。『私はこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』」と言った。

エリシャはそこからベテルに上った。

彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。

エリシャが振り向いて睨み付け、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちの内の四十二人を引き裂いた。

(列王記下2章19~24行)


これはエリヤから引き継いだ直後の話です。

ラハブに狙われるエリヤの引き継ぎですから、しるしとして新しい器(エリシャ自身)に塩を入れ清め、彼の口から出る言葉(水)も清めるという、見えざる空間内の従事者たちへのしるしです。

が、それがラハブと寝ずの番人の反感を買い、寝ずの番人が担当か口を奪って代弁者として、子供に悪態をエリシャにつかせました。

引き継ぎの御霊を受けて間もないエリシャは、まだ未熟な点を突かれて感情で怒りを口にしました。

そしてそれを狙って待っていた寝ずの番人は、主の命令である預言者の言葉に仕えよに従い、二頭の熊を誘い四十二人を死に導きました。

光に対して、二頭の熊は終末の二匹の獣、すなわち666の獣と偽預言者の映しとして使い、二人の証人が活動する四十二カ月間に重ねて四十二人を死を殺す事で、獣と偽預言者が二人の証人を殺すとメッセージを出し返したのです。

ですから光の信仰者は、常に寝ずの番人にあげ足を狙われている以上、捨て台詞使いには決してなれません。


第5の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は覆われた。

人々は苦しみ悶えて、自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。


両義預言と、八陽火は受け止める時でしょう。

これまでも十年以上、真理の輝きを開示して来たつもりですが、今回の翼の方々の開示すら盗見の終焉には至らず、もはや如何なる火も光も盗賊団には退けられてしまいます。

最も盗賊団の担当者である寝ずの番人は、「お前が私たちに紡いだから受け取ったのだ」とあげ足を取って来るのでしょうが。

とはいえ、すべては両義預言においてなら、御心のままにとしか言葉がありませんから、あとは止まらない時間に委ねる限りです。

ギリギリまで仲間へのメールと通話を続けて、光の道と対極へ向かってもらいましょう。

仲間への連絡を止めれば、盗みが必然的に収まる等という愚劣な終焉は、聖書を知る者たちには不適切ですから。

また、盗みは伝道で精算できるという試みもあるようですから、自由意思で結果を待てばと大いに思います。


今回はここまで。