20220914

また台風が近付いて来てます。

まだ遠く感じますが、既に風は強くなっており、暑さの中では少しありがたくもあります。

ですが金曜日には、多数の看板とコーンを片付けなければならず、来週の火曜日は早出して、元通りに設置し直しとなるでしょう。

時間外労働ですが、今週は二回も駐車場で接触事故がありましたから、お客さまの安全の為にも義務を果たさなければなりません。


「天の国は次のように例えられる。

畑に宝が隠されている。

見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のように例えられる。

商人が良い真珠を探している。

高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のように例えられる。

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

『世の終わりにもそうなる。

天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。

悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

(マタイ福音書13章44~50行)


最初の畑の宝の例えからは、見つけた者が地主に告白しなかった疑問が生じるかもしれません。

光の信仰者の視点ですと。

ですがイエスは、見つけた者が盗まずに、全財産を対価として、合法的に宝を入手する方法を示しています。

宝の存在を秘密にして畑を買うのは、地主を騙しているかのようですが、見つけた者の特権として認められるべきという事でしょう。

天の国の鍵は、目が開かれていない人にとっては、訳のわからぬ物に過ぎませんから、畑の肥やしとして投げ捨てられても不思議ではありませんので(マタイ福音書21章42行)。

そして地主が捨てた物を、宝として気付くのが光の信仰者ですから、地上では役に立たなくとも、後先考えずに全財産を対価に手に入れても、全く不思議はありません。


次の商人と真珠の例えも、売り物をすべて失い、商人の肩書きを失くしてでも、手に入れる価値があるのが、天の国であると示されています。

天の国は、地上の価値あるすべてのものに、勝っているからです。

ですがこちらも、手に入れる為の対価として、すべての財産を失う事が示されていますが。


そして三つ目の例えでは、対価を払えば誰でも天の国に入れる訳ではない事が、明確に示されています。

たとえ対価の条件だけ、知識からクリアしても、普段の日常生活が闇の権威者なら、天使たちが見張りの者たちの知らせによってより分け、天の国より退ける事になります。

天の国は地上と違い、善と悪が同居する世界ではありませんから。

ですから無学な方々に対しては、地上でありながら天の国に在るように生活する事が、求められています。


今年の7月から、再び悪い意味で話題になっている宗教があります。

特に献金地獄が報道されており、聖書を知る者としては、本当に忌まわしい限りです。

イエスは天の国の例えで、全財産を失ってでもと対価を示していますが、むしろ金や宝石ではなく、パウロに見られたように、それまでの一番の心の支えを失ってでもというのが、本当の意味する所です。

神は金や宝石を自ら造る事が出来ますし、人の手による財宝など天では何の価値もありませんから、献金で祝福を得ようとか、サタンを退けられるというのは、全くの無知による無礼な振る舞いです。

神と何の繋がりもない人間が、勝手に聖書を利用して、毒麦を束に集めてるだけですから、御使いや光の聖霊が訪れるはずもなく、愚行を死ぬまで続けて、自己満足に酔いしれる人生です。

献金で祝福を得ようなどという、無礼者(使徒言行録8章20行)は、主にではなくサタンに謁見する準備を整える者ですから、闇は闇にシンクロして、時を全うする事になります。

無学な方々は主が本当に喜ばれる対価を、人の財産ではなく(イザヤ書66章1、2行)、それまでの自身のプライドを形成した哲学・信条を捨ててでも、裸になっても得ようとする姿勢そのものであると、気が付いてもらえれば幸いです。

アーメン