20220902

スクーターが、買ったばかりの頃の性能に戻りました。

新しいベルトのせいではなく、シフト移動の錆びが原因での、性能低下でした。

良かったです。

阿蘇に行くルートに、過度のストレスを感じてましたから、解消されてホッとしました。

最も、説明無くボーナスが出なかった事で、痛い出費に繋がった事は、モヤモヤが残りました。

多くの御霊持ちであっても、人の世では透明で空な財産ですから、感覚的に変な感じになります(ヨハネ黙示録2章9行)。

とはいえ、もはや御霊無しでの人生など考えられませんから、寝ずの番人や闇聖霊が仕事するこの世で、無防備に生きてる多くの人たちが置かれている状況には、言葉を失う時もあります。


モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。

彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。

主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。

霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続く事はなかった。

宿営に残っていた人が二人あった。

一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。

霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。

(民数記11章24~26行)


器の準備が出来ていない者は、注がれた霊を溢れさせ、こぼしてしまいます。

したがって記録にも残らない預言を不本意に行い、見た目だけの印しにしてしまいます。

奇跡は見せものではありませんから、言葉である霊が消費されただけになるのは、本来は恥に等しい事です。


サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。

以上のしるしはすべてその日に起こった。

ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。

以前からサウルを知っている者は誰でも、彼が預言者と一緒になって預言するのを見て、互いに言った。

「キシュの息子に何が起こったのだ。

サウルもまた預言者の仲間か。」

そこにいた一人がそれを受けて言った。

「この人たちの父は一体誰だろう。」

~サウルは預言状態からさめると、聖なる高台へ行った。

(サムエル記10章9~13行)


これも人目の為の、見た目の印しになりました。

サウルは兄カインと同じく、ルシフェルの象徴持ちで、後から来るダビデが弟アベルと同じイエスの象徴持ちですから(アベルの死はイエスの死の先見)、サウルが見た目の印ししか行えなかったのは、ルシフェルが持つ外見や印象の価値観を反映しています。


サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼(ダビデ)に油を注いだ。

その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

~主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼(サウル)をさいなむようになった。

(サムエル記上16章13、14行)


ダビデは、霊を溢れこぼす預言状態や異言状態には、陥りませんでした。

生まれついての器の状態が違うからです。

そして神の霊が去ったサウルには、陰府の遣いがやって来るようになりました。


サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。

彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。

サムエルが彼らの先頭に立っていた。

神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。

サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。

三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らも預言する状態になった。

ついにサウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねた。

「ラマのナヨトです」という答えを聞き、サウルはラマのナヨトに向かってそこを去った。

彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。

彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のまま倒れていた。

(サムエル記上19章20~24行)


ダビデとは格の違いが明らかであり、正気を失ったかのようになって、無様に主に退けられた印しを、サムエルに証す役割を果たせられています。


「私はあなた方を遣わす。

それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。

だから、蛇のように賢く(民数記21章8行、ケルブのインマヌエル)、鳩のように素直になりなさい(光の聖霊の象徴)。

人々を警戒しなさい。

あなた方は地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。

また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする事になる。

『引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。

その時には、言うべき事は教えられる。

実は、話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で語ってくださる、父の霊(神の霊・聖霊)である。』~」

(マタイ福音書10章16~20行)


預言者としての器が出来上がった者は、冷静に理路整然として舌が支配されます。

聖霊によって、自身のポテンシャルを超えた視点と結論を話し、この点では先見者を上回ります。

言葉は霊であり、神と共にある神ですから(ヨハネ福音書1章1~4行)。


言葉が汚れた者や言葉が貧しい者が、この世にはあります。

それは自身の魂の状態を写しており、良い麦と悪い麦や、芽を出さない種の見分けに繋がります。

まだ芽を出さない種なら、希望は消えてはいませんが、悪い麦に成った後では、光の聖霊が霊を注ぐ事はなく、善に貧しい者となります。

ですから言葉を自らの舌の奴隷とせず、慎重かつ大切に扱う向き合う者には、光の聖霊が大事にする霊を、注いで預けてくださいます。

聖霊に霊を預けられる信頼を、勝ち取りましょう。

それには饒舌に述べようや、弁論大会やディスカッションでの勝利のような、組み立ては必要ありません。

邪心でしかないからです。

言葉に霊に鞭打つような姿勢に至らず、貧しいなら舌を制御して、沈黙をもって祈り待つのも、正しい選択です。

祈りは神に向けてのもののはずで、人に聞かす事を優先するなら、天の存在は視界から外されてしまわれますから、自由意思で不本意に天にソッポを向く事のないよう、目覚め続けましょう。

アーメン