20220905

明日は台風が来ます。

駐車場の誘導を考えると、憂鬱ですね。

台風が通り過ぎたら、大量のコーンを各場所に設置し直さなければなりませんし。

被害が最少ですんで、気温が下がる事を期待します。


イエスは言われた。

「この神殿を壊してみよ。

三日で建て直してみせる。」

それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

『イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

(ヨハネ福音書2章19~22行)


神の為に家を建てたのはソロモンでした。

けれども、いと高き方は人の手で造ったような物にはお住みになりません。

『これは預言者も言っているとおりです。』

「主は言われる。

天は私の王座、地は私の足台。

お前たちは、私にどんな家を建ててくれるというのか。

私の憩う場所はどこにあるのか。

これらはすべて、私の手が造ったものではないか。」

頑なで、心と耳に割礼を受けてない人たち、あなた方は、いつも聖霊に逆らっています。

(使徒言行録7章47~51行)


宗教脳に汚染されてない、無学な方々に伝えます。

宗教の建物である神殿・教会は、旧約聖書においても、イエスにあっても一貫して退けられています。

主が建てる神殿とは、預言者の器であり、そこに聖霊を遣わされ、霊が注がれるからです。

使徒言行録2章の、ペトロたちが最初に聖霊を受けた場所は民家でした。

そこに使徒たちと、信じて集った者たちの器という、神殿があったから降って来られました。

どこの場所であろうと、賜物持ちがいる場所が、神殿となるのです。

イスカリオテのユダを買収した神殿祭司たちと、宗教者たちは同じ価値観で、主と預言者の言葉を退けています。

宗教脳に汚染されてない方々、御言葉を素直に受けとめて、福音を退けないように注意しましょう。


宗教者が好む、三位一体という祈りも、聖書にはありません。

イエスの肉の母マリアが、聖母マリアになった等という証しもありません。

弟子たちの誰も聞いておらず、宗教脳に汚染された者たちの理想や願望に過ぎません。

宗教者たちは信者獲得という、思考停止に陥る仕組みに毒されており、需要と供給で作られていったのが、宗教教義です。

無学な方々、現代の宗教者たちが、ファリサイ派でもサドカイ派でも律法学者でもなくとも、同じカテゴリーの者たちと見て構いません。

自身のフィーリングと価値観に合う宗教スタイルを選んで、御言葉の真意に感心の無い者たちですから、イエスが改革や改宗を視野から外していたように、宗教は退けるのが賢明です。

聖書は誰にでも読め、八陽火は無償で開示しますから、そこに宗教の仲介など、全く不要なのですから。

『聖書を宗教本と思い込むのではなく、一冊の書物として向き合う事から始めましょう。』

そうすれば、無学だったイエスやペトロたちのように御霊の助けを得て、真の理解に近付けます。

ハ陽火も宗教本としてではなく、書物として臨み、預言と真理の扉にゆっくりと導かれ、救いに至る狭い門を通りました。

それが『ダンから告げる声』の、聖書開封の目で見えるサポートです。


イエスは十二の籠に、イエスのパンを食べた人たちのパンの残り屑を集めました。

パンは御言葉の事で、イエスは自身を命のパンと表現されました。

そしてパンを食べた者は、イエスの御言葉を信じた者を表しており、その人たちを十二の籠に集めるのが十二使徒たちです。

同じように、イエスは七つの籠にもパン屑を集めました。

この事からペトロたちは、別働隊としてステファノたち七人を選んだのですが、真の意味はヨハネが黙示を受けてから明らかとなりました。

現在の終末は七つの籠の時間で、ペトロたちが自らを「イエス派」とか「イエス教」と名乗らず、新宗教と宣言しなかったように、七つの教会も突然形成されて、千年王国に入るまでの繋ぎとなります。

千年王国の終わりには、再び十二教会が戻り、最後の審判のあと預言も廃れて、光の宇宙に行くのですから、未来思考で不要な伝統作りや、初代の看板などの誘惑を退けて七つの教会に導かれるようにしましょう。


今は個人的に、イエスは立ち上がられる前に、生まれ故郷でファリサイ派やサドカイ派や律法学者たちと話され、確認を終えられていたと見ています。

ゆえに説得を全く試みらず、洗礼者ヨハネも同じような経験を経て、洗礼を受けに来た者にすら「蝮の子ら」と呼んで、退けられたと思われます。

パウロのように、主が声をかけられてイエスと告白すれば、神殿祭司らも改心したのではと思う人もあるかもしれません。

ですがパウロの特例は、神の秤に基づくもので、サタンがイエスの側近のイスカリオテのユダを盗った為に、相応に当たる敵の部下で取り返されただけですから、宗教者がパウロと同じ特例を望んでも、無駄に人生を過ぎ去らせるのが落ちです。

八陽火も散々開示で目覚めを促しましたが、都合の良い真理と社会的地位の確立に魅いられ、不可能を思い知らされました。

それでも自分の使命の前に分かった事は、大きい収穫でした。

あとは宗教者は、自身の自由でギャンブルに勝つか負けるか、好きにすればよいと考えます。

イエスや洗礼者ヨハネが出来なかった、改革やリバイバルを、ハ陽火のサポート開示で出来るわけがありませんから、イエスに習い無学な方々に種が蒔かれればと期待します。

アーメン