天と地と海と陰府の世界

「~私は、あなたの行いが、『私の神』の前に完全なものとは認めない。~」

(ヨハネ黙示録3章2行)


「~勝利を得る者を、『私の神』の神殿の柱にしよう。

~私はその者の上に、『私の神』の名と、『私の神』の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、私の新しい名を書き記そう。~」

(ヨハネ黙示録3章12行)


「~勝利を得る者を、私は自分の座に共に座らせよう。

私が勝利を得て、『私の父』と共にその玉座に着いたのと同じように。~」

(ヨハネ黙示録3章21行)


七つの教会宛ての手紙で、三つの教会の受取人に対し、イエスが『神』と『父』を使い分けておられるのが判ります。

八陽火は述べている通り、第5であるサルディス教会宛ての受取人と思い開示を行っています。

よって前回の開示は、イエスの使い分けの真意に、開示が御心と受け止めて出しています。

またその後の成り行きを、主と空間内の者たちが、御覧になり見定める為であるからだろうと、判断しての事です。

もちろん、これまでの開示対象には、空間内の寝ずの番人たちも含まれて投げかけています。

聖書の中に人間相手ではないメッセージが含まれてるのも、昼と夜の職務に当たる者たちも対象として、聖書は存在してるからです。


ピラミッドに関する新しい発見が続いています。

八陽火の開示では、以前からピラミッドは、大洪水以前に多くの汚れを教師として地上にもたらした、寝ずの番人の信仰神殿としています。

ですから、死を司どるサタンの教えとして、死に関する価値観に満たされており、死者の書があるのも当然です。

小羊の命の書に対を成す、竜の死者の書ですから、その名が記載されてはならない陰府誘いの書です。

それを偽りの名の寝ずの番人によって、現代に真の聖典として死者の書を広めんとする危険な者たちもいます。

八陽火は、カバラの生命の木を、11個の実しかない(12使徒から唯一脱落したユダの象徴)死の木が正体として、寝ずの番人の手駒にならない様にとけいのして来ました。


天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶の様に輝く命の水の川を私に見せた。

川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって(命の木と成った善悪の知識の木で二本)、年に十二回実を結び(全24個)、毎月実を実らせる。

(ヨハネ黙示録22章1、2行)


創世記3章では、園の中央にある二本の木は、命の木と知識の木となっています。

命の木は御父と翼の方の象徴で、知識の木はイエスと翼の方の象徴です。

ゆえに知識の木が死と結びついてる為に、イエスの死は避けられませんでした。

そのイエスが生誕した際に、最初にエジプトに逃れたのも、死に渡される宿命の暗示です。


モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。

エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。

水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。

(出エジプト記14章27、28行)


十戒という映画でも分かりますが、ピラミッド建設にファラオは熱心で、サタンの信者でした。

ファラオの側近魔術師の杖が蛇に変わりますが、その蛇はイブを騙した蛇の象徴で、蛇に変わったアロンの杖はイエスが告白された炎の蛇(民数記21章4~9行、ヨハネ福音書3章14行)です。

アロンの象徴の蛇は、魔術師の杖の蛇に勝ちますが、それは飲み込む事で勝ったものでしたから、イエスもその翼の方も何らかの汚れをお持ちで、死を通過し克服されなければならなかったと考えられます。

多くの方々には不思議なはずの、イエスの死の象徴的印しですから。


海は、その中にいた死者を外に出した。

死(サタン)と陰府(ラハブ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれの自分の行いに応じて裁かれた。

(ヨハネ黙示録20章13行)


サタンのピラミッド信奉者、及び寝ずの番人は、ファラオという信者を見る限り、海側に千年間拘束されるものと思われます。

ですから人は惑わしてきた寝ずの番人には、陰府で会う事は無理と思われ、原因は追求出来ないでしょう。

また理由は不明ですが、二人の証人も地上でいう半日が陰府で、汚れ落としの塩の海側が3日となります(ヨシュア記3章)から、復活にかけて見えない仕事があるようです。


人間より上位存在の空間内の者たちは、必然的に優秀で人間のようにムラが起こり難い存在です。

が法則により、人間よりも自由を持ってはいません。

お手付き先行を多用し誘う寝ずの番人たちに担当されない様に、御言葉を心に留めて誘惑を退けなければなりません。


今回はここまで。

アーメン