20220827
朝が少し冷えるようになって来ました。
梅雨もなく、夕立ちもほとんど無い夏となりましたが、阿蘇の方は降っているのか、それほどまでには水不足が叫ばれてはいません。
複数の他県を知る八陽火としては、本当に水道水に恵まれた県ですから、阿蘇山がある事に当たり前と思わず、感謝を強く抱いてしまいます。
それだけに最後のツーリングとなる時と、使命で九州を出る日が来る事を、最近は考えてしまいがちです。
神は御力をもって海を制し(ヨハネ黙示録17章1行)、英知をもってラハブを打たれた。
風をもって天をぬぐい、御手は逃げる大蛇を刺し貫いた(イザヤ書27章1行)。
(ヨブ記26章12、13行)
あなたはラハブを砕き、刺し殺し、御腕の力を振るって敵を散らされました。
(詩編89章11行)
ラハブとルシフェルが、主の怒りを買い退けられたのは明らかです。
ネゲブの獣についての託宣。
彼らはその富をロバの背に、宝をらくだのこぶに載せて、吠えたける雌獅子や雄獅子、蝮や、飛び回る炎の蛇が住む、悩みと苦しみの道を経て、益を与える事のない国に赴く。
エジプトの助けは空しくはかない。
それゆえ、私はこれを、『つながれたラハブ』と呼ぶ。
(イザヤ書30章6、7行)
富に溢れ、女王宣言をする淫婦バビロンと、終末の獣に重ねての託宣となっています。
ゼカリヤ書5章7行に、鉛の蓋でエファ升に幽閉されたラハブの記述があり、つながれたラハブの例えが分かります。
またエジプトの助けとは、モーセを追い海に沈められたファラオが、ルシフェルの象徴持ちで海の竜に重ねて、神の前に無駄な援軍と揶揄されています。
奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。
奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。
ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは、あなたではなかったか。
(イザヤ書51章9行)
主に逆らう堕天使と闇聖霊たちは、共に退けられ敗戦しています。
聖なる山に基を置き、主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される、シオンの城門よ。
神の都よ、あなたの栄光について人々は語る。
「私はラハブとバビロンの名を、私を知る者の名と共に挙げよう。
見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをもこの都で生まれた、と書こう。
シオンについて、人々は言うであろう、この人もかの人もこの都で生まれた、と。」
いと高き神御自身がこれを固く定められる。
主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と。
歌う者も踊る者も共に言う、「私の源はすべてあなたの中にある」と。
(詩編87章)
ティルスの王はファラオと同じく、エゼキエル書28章で明らかにされている通り、ルシフェルの象徴を持っていました。
またイエスが開示された通り、ティルスの町の担当聖霊は闇聖霊で、罰が決まっています(マタイ福音書11章20~24行)。
他のクシュやペリシテの担当聖霊も同じで、ラハブが担当したバビロンなどは説明不要でしょう。
エファ升の女がシンアルの地(創世記11章1~8行、ゼカリヤ書5章11行)に置かれるのも、その地の担当ゆえの宿命です。
とはいえ、もとはシオンで生まれた聖霊たちですから、善悪が疎かになった事が、光と闇の別れめになろうとは、人智を超えた真実です。
初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
『暗闇は光を理解しなかった。』
(ヨハネ福音書1章1~5行)
闇の権威は、光の視点、光の希望、光の未来に喜びを見出だせませんでした。
光の祝福を祝福と受け取れず、高揚無き対価と不信を募らせました。
暗闇は光と交わる事を避け、自らの価値観を追い求める選択をし、神と戦ってでも貫きました。
神の前に退けられた堕天使と闇聖霊が、火の池に入れられる前に自由を得る事が、人類には大変な不幸につながっています。
毒麦は闇の権威の誘惑で、毒麦の束に集められるために。
良い麦はいばらの道の糧として、誘惑を退け救いに至る為に。
アーメン
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