20220815

先週に引き続き、昨日の阿蘇も夏らしい晴れの気候でした。

市内から見ると、入道雲が大きく上空にあったので、少し寒いかもと警戒したのですが、光溢れる自然で、大いに森林浴も出来ました。

そして帰って来て聖書を開くと、導きを感じる事が出来、玉座の王とその翼の御方が、人類を同族として迎えようとされて始められた人類創造だったと、確信しました。


神は言われた。

「我々(イエスと翼の御方)にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。~」

神は御自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。

男と女に創造された。

(創世記1章26、27行)


アダムとエバは神々に似せて造られました。

まさにアダムはイエスの双子の弟のようで、エバもイエスの翼の御方の双子の妹のようだったはずです。


イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

(ヨハネ福音書21章12行)


アダムが創造主イエスに似せて造られたといっても、復活前の母マリアの子イエスの姿ではありません。

復活後の玉座の王の御姿こそ、アダムのオリジナルとなった御方の姿ですから。

パウロの第一コリント15章22行から、イエスを第二のアダムとする見方があるようですが、全くの誤りで、神の似姿たる人類の祖アダムこそが第二なのです。


人(アダム)と妻(エバ)は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

(創世記2章25行)


また別のあるとき、彼は再び私たち三人をその山へ、『私と共に来なさい』と云われて導かれた。

私たちもまた出かけた。

そして、今度は、彼が少し離れた所で祈っておられるのを見た。

私だけは、彼に愛されていたので、ゆっくりと気付かれないように更に近づき、彼をその背中から眺めながら立っていた。

そこで私が見てみると、彼は着物を全く着ておらず、私たちがよく目にした服もなく裸で、全く人間のようではなかった。

また、両足は雪よりも白く、そのため、足許の地面が明るく照らし出されるほどであった。

その頭は天にまで高々と伸びていた。

それを見た私は、恐怖のあまり大きな叫び声を張り上げてしまった。

(新約聖書外典・ヨハネ行伝)


20220707の記事にもした、ヨハネ行伝からの抜粋です。

イエスが裸で現れ、聖霊受洗前で目が開かれてないヨハネは、頭上のイエスの翼の御方が正確に視認できず、驚いています。

もし見えていれば、失われた女性の祖エバの姿を目撃出来たはずです。


イエスが裸をあえて見せられたのは、裸のアダムの創造者である告白と、天地創造の御仕事を裸で臨み成されたからです。

ですから意地悪でアダム達(作品に服は要らない)を裸で暮らさせた訳ではありませんし、玉座におられる時は王も真っ白な服を着ておられるのですから(ダニエル書7章9行)、創造の御仕事中(夫婦の子作りの営みの如く)と玉座に在られる時を混同してはなりません。

イエスの三年半でも、心を裸にして祈る事は求められても、神殿のレビ族の服装が定められていたように、イエス御自身も服を着て使命を果たされました。

間違っても肉の器の裸で、形から入ろうと勘違いしてはいけません。


主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

(創世記3章21行)


地上から失われた人類の祖アダムとエバの姿を、ダビデやステファノのように見知る栄光を、玉座の王と頭上の翼の御方をもって、悟る事が出来る者に至りましょう。

アーメン