20220809

今日は見事に夏バテになりました。

飯が美味くないです。

ですが、ドリンクは最高に美味しいです。

明日出れば、祝日で一休み出来ますし、週末の連休も近いですから、忍耐忍耐で秋まで頑張るしかないですね。


そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。

そこにはあの獣と偽預言者がいる。

そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

(ヨハネ黙示録20章10行)


私は、都の中に神殿を見なかった。

『全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。』

この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。

神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。

諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。

都の門は、一日中決して閉ざされない。

『そこには夜がないからである。』

(ヨハネ黙示録21章22~25行)


獣と偽預言者が入る火と硫黄の池には、昼と夜があります。

ですが、救いに至る者たちが行く光の宇宙には、夜がありません。

この暗い宇宙とは、全く別な宇宙だからです。

そして人とは、悪人も善人も生物としての人間には変わりなく、共に弱肉強食の中にある存在でしたが、光の宇宙に至った魂と火の池に入れられた魂では、全く別なエレルギー体となり、ハッキリと異なる種族となってしまいます。

光の宇宙に新しく生誕した者は、誕生を待ちわびた神に真の名を与えられ、新しい真の人生を歩み始め『真に生きている者』となります。

光の宇宙で自身も光と成り、光は一秒に地球を七周半回れる速度の止まらぬエレルギーですから、まさに生ける者となります。

対して、火の池に投げ込まれる者は、魂が停滞する闇エレルギーと成り、屍のように動けなくなります。

死体のように、その場を動けないブラックホールのようにです。

光化した魂は活動するエレルギーで、闇化した魂は停滞するエレルギーで、生者と死者のように違ってしまいます。

魂が肉の器に入っている時は、善人も悪人も同じ様に分け隔てなく暮らせましたが、魂だけとなった時に、良い麦と毒麦の方向性の差が、ハッキリと出てしまいます。

そしてそれが自身の人生の反映としての真理となり、光か闇かの永遠のエレルギー体として、完全に別れる事になります。

真理となるという事は、主にも変更不可となるのですから、今の人生を光の選択に費やさなくてはなりません。

これは貧乏人も金持ちも、等しく心がけられる事ですから、嫉妬と妬みに誘導されないように、注意しましょう。


以前にも言いましたが、八陽火は光の宇宙に生誕して、光の中心に向かい、その神秘を探求する目標があります。

残念ながらこの宇宙では、『光が有る』という事までしか確認出来ませんから、例えれば人間は胎児として目が開けておらず、母胎の外から呼びかける主の声を聞いて、誕生に備える未熟な存在です。

私たちはまだ、不確定な存在であり、かりそめの命なのです。

光の宇宙で永遠の生者と成るか、火の池で永遠の死者と成るか、自由意思で光の権威と闇の権威のどちらかを、選択しなければなりません。

良い麦にも毒麦にも成れるのですから。

アーメン