20220803

月曜から猛暑です。

日曜日が雨で阿蘇を断念してのですから、役所から見える快晴の阿蘇が、悩ましいです。

最も梅雨明け以降、快晴の夏の日曜日に巡りあえてませんから、求めようと思った事ゆえに、退けられているとも感じられ、複雑な気分です。


ここに石がある。

これは私がヨシュアに差し出すものだ。

この一つの石に七つの目がある。

(ゼカリヤ書3章9行)


ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。

その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。

(ゼカリヤ書4章10行)


ヨシュアとゼルバベルの名は王を示す例えで、手にある石の意味が重要です。

七つの目があり、地上をくまなく見回る主の御目という部分です。


あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。

七つの星は七つの教会の天使たち、七つの金の燭台は七つの教会である。

(ヨハネ黙示録1章20行)


『神の七つの霊(聖霊)と七つの星(天使)とを持っている方が、次のように言われる。~』

(ヨハネ黙示録3章1行)


~玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。

これは神の七つの霊である。

また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。

(ヨハネ黙示録4章5、6行)


ヨシュアとゼルバベルの手にある石は、イエスの右の手の七つの星と同じです。

そして七つの星は七つの教会宛ての手紙の受取人たちであり、七つの霊は彼らの聖霊です。

終末の世、彼らは全世界に無学な者として生誕し、見張りの者たちの仕事の確認で、世界と人々を目撃します。

同じように、かつてイエスも、自身の翼の御方である聖霊を天に残し(ヨハネ福音書7章39行)、三年半の使命を果たされました。


イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。

その時、天がイエスに向かって開いた。

イエスは、『神の霊(聖霊)』が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

その時、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(マタイ福音書3章16、17行)


洗礼後にイエスに降った聖霊は、御父の翼の御方です。

ですから、「私の愛する子」と言われたのであり、イエスの翼の御方が、イエスを我が子と言われる事はありませんから。

イエスの翼の御方が来られたのは、最初のペトロたちの聖霊受洗の時であり、この事は二人の証人が復活して四十日後に、千年王国の開始時に神の七つの霊が同じように降られ、終末の七つの教会に集った民たちが、初代十二教会信仰者たちと同じように、聖霊受洗される事を表しています。


私はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。

小羊には七つの角と七つの目があった。

この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊(聖霊)である。

(ヨハネ黙示録5章6行)


小羊の七つの角とは、終末の七つの教会宛ての手紙の受取人たちです。

闇においても、淫婦バビロンに十本の角があるとされ、黙示録17章12行で十人の王とされる人間と、開示されています。

小羊の七つの角と七つの目とは、御使いと聖霊の夫婦七組の事で、かつてイエスと翼の御方の、夫婦一組で行われた二千年前の奇跡が、今度は七組の遣いの夫婦によって行われます。


玉座の王は燭台を通じて地上を御覧になり、二十四人の長老たち(ヨハネ黙示録4章4行)と天使たち(ヨハネ黙示録5章11行)は、玉座前の水晶に似たガラスの海(大画面ディスプレイ)で、証人として見張りの者たちの仕事を見ています。

人間はヨブに見られるように、その見張りの者たちの仕事結果を、反映する存在ですから、イエスが憐れみをもって赦せと言われる理由が分かります。

心配しなくとも、人間のデータは数千年あり、予想外などありませんから、神の目に過度なプレッシャーを受ける必要はありません。

前回のエリファズの前に現れたサタンのセリフに、人間臭さを感じるでしょう。

人間的感情で、霊の器を有しているだけの上位存在ですから、善悪で正しくあれば、善で寝ずの番人と闇聖霊に勝る事が、人間には出来ます。

善にこだわり、おろそかにしない信仰に目覚めましょう。

そして宗教を仲介とする天へのノックの無力さに、いいかげん気がつきましょう。

アーメン