20220731
金と組織力の力が、日本の政界で暗躍しています。
政治家から鈍感を通り超えた言葉を連日聞き、国民の味方なのか敵なのか、根本に疑問が生じます。
それでも平和な行進デモも起きない国民性ですから、この特異性の心理には、不思議な脅威を覚えます。
「~それから、王は左側にいる人たちにも言う。
『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いていた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。
『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。
この最も小さな者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかった事なのである。』
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
(マタイ福音書25章41~46行)
玉座の王の使命と責任である、右と左の最終裁判に関する預言です。
読むとイエスの遣いに敬意を示せなかった者は、イエス本人を退けた事と同じで、その為に王が左に退けられたと分かります。
ですがこれは、遣いの者を分身とでも言われてる訳ではなく、本当にイエスを退けている為の判断です。
「はっきり言っておく。
あなた方が地上でつなぐ事は、天上でもつながれ、あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。
『二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである。』」
(マタイ福音書18章18~20行)
二人ないし三人の遣いが集う所には、私も居ると言われており、一人は除外されています。
その理由は、聖霊を通じて遣いの者の目が、玉座前の燭台に繋がっているからです。
ですから二人揃えば、互いの瞳の奥に王の御顔があり、三人でも互いに同じですから、私もそこに居ると本当の事を言われているのです。
なので遣いの者をもてなせる者は、本当にイエスを迎え入れた事になり、「私にしてくれた事と同じ」と判断されるのです。
忍び寄る言葉(ヨブを試すサタン・寝ずの番人)があり、私(テマン人エリファズ)の耳はそれをかすかに聞いた。
夜の幻が人を惑わし、深い眠りが人を包むころ、恐れとおののきが臨み、私の骨はことごとく震えた。
風(堕天使・ヘブライ人への手紙1章7行)が顔をかすめてゆき、身の毛がよだった。
何者か、立ち止まったが、その姿を見分ける事は出来なかった。
ただ、目の前に一つの形があり、沈黙があり、声が聞こえた。
「人が神より正しくあろうか。
造り主より清くあろうか。
神はそのしもべ達を信頼せず、御使いたちをさえ賞賛されない。~」
(ヨブ記4章12~15行)
ヨブの信仰を試す為に使おうと、聖霊を受けていないエリファズの前に現れた、サタンとの対面場面です。
これが聖霊を受けた遣い相手だと、目を閉じている時にしか干渉して来ませんから、ハ陽火も眠っている時に、何度か干渉を受けた事があります。
最もその時の何度かは、目を開けて退けられましたが。
基本的に寝ずの番人たちは、玉座の王との対面を避けますから、十四万四千人も同じように退けられます。
とはいえ鏡の前に立つと、緊張を覚える事も生きている限り続く事になりますが。
それでも寝ずの番人が嫌がるのですから、幽霊なら近付いて来る事も無くなります。
肉の器に入られた者以外は。
前回の記事で、預言者エゼキエルは主に見張りとされ、すべての預言者が見張りにあると開示しました。
ですが『見張り』とは、主が使命されたもので、預言者は誰も自ら見張りとは言わず、また自覚が無い者も多くあります。
玉座の王から見た視点が、燭台(ディスプレイ)と預言者(カメラ)の関係での『見張り』でもありますから、言葉の印象から受ける独裁主義の密告社会のような見張りとは違います。
なぜなら人間である限り、聖霊持ちも見張られているのですから。
聖霊を受けていない宗教者が、主の代理を装おう事に注意しましょう。
アーメン
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