20220722

例のカルト宗教の情報が、日々更新されて化けの皮が剥がされています。

ですが男と違い霊感が上の為か、熱心になって善悪が疎かになり、酔いどれ信仰におちいる女性が多いなと感じられます。

霊感ゆえか、占いやパワースポットなど、男からしたら迷信的なものに引かれ易いですから、数少ない?目を覚ました光の聖霊候補の尊さが、際立つというものです。


セイルから、私を呼ぶ者がある。

「見張りの者よ、今は夜の何どきか。

見張りの者よ、夜の何どきなのか。」

見張りの者は言った。

「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。

どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。

もう一度来るがよい。」

(イザヤ書21章11、12行)


エゼキエル書35章のセイル山への、主の怒りを見ると、この見張りの者が寝ずの番人である事が分かります。

聖書に出てくる、寝ずの番人の実在を示す、唯一の箇所です。


最後にダニエルが来た。

これは私の神にちなんでベルテシャツァルという名を与えた者で、彼には聖なる神の霊が宿っていた。

私は彼に夢の話をして、こう言った。

「~更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降って来るのが見えた。

『~こうして七つの時が過ぎるであろう。

この宣告は見張りの天使らの決定により、この命令は聖なる者らの決議によるものである。

すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てる事もできるという事を、人間に知らせるためである。』~」

(ダニエル書4章5~14行)


見張りの天使とある通り、寝ずの番人とは対極にある、御使いが見張りの者である報せの箇所です。

黙示録においては、ミカエルと共に三分の二側に立って、三分の一のサタンの軍勢である寝ずの番人と戦う、見張りの天使の事です。

十二使徒たちが地上より失われ、賜物持ちが不在となり、解釈不能となった宗教者が、エノク書を外典偽典にして封印しようとしても、肝心の十二使徒が手紙で認めてる理由が、聖書の中にもあるのです。


十二使徒の誰もキリスト教徒になれとは言っていません。

また、自らをキリスト教徒とも名乗ってはいません。

イエスの福音を日常生活の中で、一般常識のように受け取る事を勧めているだけで、宗教というカテゴリーに治めてしまう事をしてはいないのです。

三位一体という、信仰酔いに誘う造語も、聖書にはありません。

この言葉が種蒔きの方法の進化と写るなら、退けられています。

そして自らも自由意思で主を退けているのです。

これに陥っている者は多く、無自覚に救いに至る狭い門を、視界から外しています。

信仰の悪酔いから目覚め、善悪を失わずに固く立たなくてはなりません。

でなければ簡単にキリスト教徒盗賊団のように、寝ずの番人を引き寄せ、闇の燭台へと集わされてしまいます。

三分の一の戦力にはならないというのに。


アーメン