20220716

総理の口から国葬の話が出た事で、銃撃暗殺事件の警備に、見張りの者が介入した感じを、強く受けました。

最初はまさか平和な日本でという、平和ボケでのSPのミス連発な印象でしたが、見張りの者が介入しての結果であれば、偶然の重なりも可能ですから、国葬が終わるまでは見極めを急ぐ事は出来なくなりそうです。


宗教法人化を利用した、法の華三法行の霊感商法的な、悪質な某キリスト教系団体が、連日追い込まれる報道がなされています。

かなり児戯な教義ですが、それでもオレオレ詐欺業者と同じ上納金の縛りから、信者は思考停止して善悪の見境なく、暴走信仰におちいっているようです。

自由の下での、終わらない罪な側面を見させられる気分です。

ネットのコメントに、無宗教でも愛が勝つとありましたが、正しく愛は宗教だけのものではありませんから、当たり前への気付きの重要性に、本当に頷かされます。

人間は個人差がハッキリとあり、霊感が低い多くの者は形から入らざるをえなく、偶像や舞台衣裳への投資を、団体側は欠かす事が出来ませんから、需要と供給で間違いが確立されて行きます。

そして自由を尊重しての姿勢は、見張りの者においては職務に忠実となり、人間が手がかかるからこそ見張りの者自身の愛も見計れますから、光の宇宙に行く以外は解決策が無い事を、改めて痛感させられます。


「今、私は心騒ぐ。

何と言おうか。

『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。

しかし、私はまさにこの時の為に来たのだ。

父よ、御名の栄光を現してください。」

すると、天から声が聞こえた。

「私は既に栄光を現した。

再び栄光を現そう。」

そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、他の者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

イエスは答えて言われた。

『この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方の為だ。~』

(ヨハネ福音書12章27~30行)


イエスはハッキリと『この声』と証されましたが、人々の中には雷の音にしか聞こえない者たちもいました。

これは、イエスを信じている者とまだ迷っている者、また神の実在を信じている者と疑っている者の差が、そのまま自身の霊の耳の結果として出たものです。

人の心は空間内の者には隠せませんから、信じている者はサポートを受け声を聞き、信じきれていない者は自然現象としてしか受け取れず退けられました。

御霊の声は、自らの魂の霊の耳で聞かねばならず、肉の耳しか使えなかったからです。

『声を聞く』誉れは、生活を共に送る家族のような隣人の証しであり、耳がある事はイエスの福音でも度々重要視され注意されています。


先に外典のヨハネ行伝の、ヨハネの告白を記事にしました。

霊体験の無い者は、聖霊受洗前のヤコブとヨハネの肉眼を信じているようですが、肉の目は肉の耳と同じく正確に神の栄光を映す事は出来ません。

ですからイエスが変化したのではなく、それぞれ個人の霊量に応じて、幼子(御子)から老人(日の老いたる者・ダニエル書7章9行)の、イエスの御姿を写し見ただけであり、頭が天までのびていたのは、頭上の聖霊(マタイ福音書3章16行)を視認できなかっただけです。

古い伝承で御使いの実態が、高層ビルに匹敵すると言われる理由が分かるでしょう。

賜物無しに教義を作らせると、判断に困る伝承は外典偽典として封じられますから、ヨハネの黙示録が外されなかった事は、予想したヨハネの警告のおかげで(ヨハネ黙示録22章18、19行)、大きな功績と言えます。


その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母(聖母信仰)」という名である。

私は、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。

(ヨハネ黙示録17章5、6行)


ハ陽火の開示の言葉(霊)に、冷静さを失い酔って暴走信仰に成る者は、闇の聖霊候補者です。

善悪の善にとどまり、自己愛に傾倒して陰府に集わされないように、注意しましょう。

誰であっても、自由のもとで判断しており自己責任なのですから、福音ゆえに主イエスは赦さざるをえないなどと試みる事のないよう、暴走信仰の誘惑を退ける確かさが求められます。


アーメン