20220622
熱中症のリスクから、マスクを外そうの流れになっています。
コロナ共存での終息感が出てきたせいなのか、本当に今月は役所に来る人が、先月より多いです。
一年早く、勤務していた先輩たちも、去年と違うと驚いてますが、去年一昨年が引きこもり義務だっただけで、これが本来の姿なのかもしれませんね。
そうすると交通誘導がメインになりますから、本当に二年後の春まである契約期間が重く重く感じ、忍耐と解放されたい気持ちで、揺れ動きます。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このような事をし始めたのだ。
これでは、彼らが何を企てても、妨げる事はできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう(強制異言化)。」
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。
主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
(創世記11章5~9行)
主の言葉にある『我々』に、聖霊の方々も在る事が分かります。
ペトロたちが最初に聖霊を受けた時の、異言(外国語)の奇跡と同じだからです。
~炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、誰もかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
~人々は皆、驚き、とまどい、「いったい、これはどういう事なのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
(使徒言行録2章3~13行)
一つの言語であった創世記の時代では、異言をもたらせて人々を散らされました。
そして、ペトロたちの十二の籠に、御言葉パンを食べた者たちが集められる合図として、イエスの十字架刑によって清算された証しとして、異言の印しが表れました。
散らされる為に使われた異言が、今度は集められる為の報せとなり、捕囚で散って行って戻って来た信心深い者たちに、今度は散らされない証しとされました。
無学で伝統的でないイエスの教えを信じるのは、当時としては大変な勇気のいる事ですし、ましてや人のイメージする所なら、救世主が処刑されて終わるなど誰も想像もしない事ですから、奇跡と御言葉でシンプルに信じた人々は、正しく聖霊を受けるに相応しい方々でした。
現代でこれほどの対価になる環境での信仰告白は、北朝鮮やイランやアフリカなどでしか、考えられないものです。
残念ながらリスクの無い先進国での告白は、たいした対価は発生できませんから。
言葉を分けた仕事が聖霊によるものなら、バベルの一件から聖霊たちが各々に分かれて、それぞれの町を担当する仕事が始まったと思われます。
守護する見張りの者たちとの、詳しい職務内容の違いは不明ですが、今後は方言や県民性などで、その土地や地域の担当者のキャラクターが見えてくるのかも知れません。
光の聖霊と御使いが担当する、七つの教会であるパン籠に集える者は幸いです。
アーメン
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