20220616

今週も多くの人が役所に来てます。

昨日はATMに列が何度か起き、大きいバンで来てATMの近くに停めたがる人に、ウンザリしました。

支店やコンビニに行ってほしいですが、来月の15日も来るのでしょう。

昭和の給料ボーナス手渡し時代が、懐かしいです。


イエスはこれらの例えを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。

会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

この人は大工の息子ではないか。

母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。

姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。

この人はこんな事を全て、いったいどこから得たのだろう。」

このように、人々はイエスにつまずいた。

イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」といい、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

(マタイ福音書13章53~58行)


イエスの故郷ナザレは、寝ずの番人が担当守護者でしょう。

苦難の地に遣わされるからこそ、預言者は苦悩に苛まれ、孤独に向かうものと感じれます。

前のブログで母親マリアは、最後までイエスを信じ、復活後の玉座の王の御姿に会えましたが、父違いの兄弟たちは宗教活動と勘違いし、脱落したと開示しました。

奇跡の子イエスを体験したマリアは信じきれましたが、イエスは三十才になる(民数記4章3行)までは、御子の権威を肉の兄弟たちにも秘めて待たれたはずですから、兄弟たちにとっては長男イエスという存在でしかなかったはずで、兄弟には不運?な絆となりました。

当時のイスラエルは外国人の支配もあり、その為に多くの町が寝ずの番人の担当だったはずで、それゆえにイエスを退け、流浪の民となる神の怒りを受けました(エレミヤ書4章)。


「ところで、あなた達はどうおもうか。

ある人に息子が二人いたが、彼は兄の所へ行き、『子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言った。

兄は『嫌です』と答えたが、後で考え直して出掛けた。

弟の所へも行って、同じ事を言うと、弟は『お父さん承知しました』と答えたが、出掛けなかった。

この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか。」

彼が「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。

「はっきり言っておく。

徴税人や娼婦たちの方が、あなた達より先に神の国に入るだろう(神の秤の傾き具合の判定説明)。

なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなた達は彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。

あなた達はそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

(マタイ福音書21章28~32行)


洗礼者ヨハネもイエスも、無学で宗教の種が根を下ろしていない者に、神の道へと案内されました。

パウロは特例であって、十二弟子のイスカリオテのユダがサタンに奪われたがゆえの、同等対価としてファリサイ派から取り返されたただけです。

それがパウロが信仰告白無く、聖霊を得られた理由で、特例すぎて参考にするのは難しい成立です。

ですから宗教素人の日本人の中の、宗教種が蒔かれておらず根を下ろしてない者には、無限の可能性が見いだせます。

八陽火も空間内の導きによって、幸いな事に宗教に属した事の無い人生ですから、宗教教義の根が無かった事で、聖書の真の報せを退けずに済みました。

宗教種が無い日本人は、耕されるだけで種が蒔ける恵みにあります。

一冊の書物である聖書は、特定の宗教のものなどではなく、善に向かう者なら、誰でもイエスの家族となれる道に向かえる、手引き書です。

聖書は神が預言者を仲介として、命ある者に渡された書物ですから、よって宗教者ではなく、預言者を目指す者にとってこその、書物です。

預言者を先人とする道に行くには、聖書に代わる書物はありません。

たとえ成れずとも命ある限り、目指し続ける事にも意味があります。

ですから聖書を宗教本と先入観で間違えないよう、幼子のような新鮮さで、無学な者たちに触れてほしいと願います。

アーメン