20220601

先月は違和感あるシンクロが、複数ありました。

空間内の者の介在による惑わしと、存在の優位性をアピールされてる感じで、めんどくさいです。

福音書ではイエスがサタンからの三つの誘惑の時(マタイ福音書4章1~11行)に、勝手に神殿の屋根の端に立たせたり、高い山に連れて行ったりとありましたが、上位存在による子供だましな干渉は、本当に厄介だなと思います。

夜の見張りの者として、数千年の経験の蓄積があり、主に戒められるか見過ごされるかのラインが分かってますから、面倒な働き手です。


アラムの王は言った。

「行って、彼(エリシャ)がどこにいるのか、見て来るのだ。

私は彼を捕らえに人を送る。」

こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。

王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。

彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。

神の人の召し使い朝早く起きて外に出て見ると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。

従者は言った。

「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」

するとエリシャは、「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い。」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。

『主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。』

アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが 主に祈って、「この異邦の民を打って目をくらませてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた。

エリシャは彼らに、「これはあなた達の行く道ではない。私について来なさい。あなた達の捜している人の所へ私が連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアに連れて行った。

彼らがサマリヤに着くと、エリシャは、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と言った。

主が彼らの目を開かれ、彼らは見えるようになったが、見たのは自分たちがサマリヤの真ん中にいるという事であった。

イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「私の父よ、私が打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」と言ったが、エリシャは答えた。

「打ち殺してはならない。

あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。

彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」

そこで王は彼らの為に大宴会を催した。

彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。

アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。

(列王記上6章13~23行)


人の肉の目は、地上に特化して造られており、地上の万物を見る事についての機能は有しています。

ですが見えない空間内については、自身で自らの魂を肉の目で見れないように、肉の目は霊の片鱗すら写す事ができません。

人を超えた存在の手助けがなければ、多くの人たちと同じく、何も無いが空間と認識せざるを得ません。

エリシャの従者は、エリシャによって主につむがれた為に、空間内の主の見えざる炎の軍勢を目撃できました。

人として見えなかった事も偽り無い事実で、その後の炎の軍勢が在る事が見えた事も、偽り無い真実です。

人の持つ自由は、見えない自分も見える自分も選択でき、どちらも自分自身による結果の反映として、成立します。


イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

そして、「シロアム~『遣わされた者』という意味~の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

(ヨハネ福音書9章6、7行)


アダマー(土)からアダムの目を造った時の、創造主としての再現VTRのような印しです。

設計から製造までされたイエスですから、エリシャの従者だけでなく、アラム軍の目を閉じたり開いたりするのも、御持ちの権威から簡単な事です。


~サウロが旅をしてダマスコに近付いた時、突然、天からの光が彼の回りを照らした。

サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

~サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。

~アナニヤは出掛けて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。

「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおりに見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」

すると、たちまち『目からうろこの様なものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。』

そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

(使徒言行録9章3~19行)


肉の目だけでなく、自らの魂の目も開いたパウロは、肉の目だけだった過去の自分を捨てて、魂の目で見える自分を受け入れ、イエスに仕えるようになりました。

その為に命の危険にさらされるリスクを背負いましたが、パウロに後悔はありませんでした。

パウロに起こった事は誰にでも起こりうる事です。

が、肉の目の自分だけが良い者は、自由意志でそれが最終決定として尊重され、御霊を受ける事はありません。

パウロのように自らの魂の目も開きたい者は、人間の時に死後に手にする視界すら見る事ができます。

ですがそれは、それまで築き上げた自分を対価に失い、別人に等しい自分作りを始める事となり、まさしく新しく生まれた自分です。


イエスは答えて言われた。

「ハッキリ言っておく。

人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事はできない。」

ニコデモは言った。

「としをとった者が、どうして生まれる事が出来るでしょう。

もう一度母親の胎内に入って生まれる事ができるでしょうか。」

イエスはお答えになった。

「ハッキリ言っておく。

誰でも水(前・洗礼)と霊(後・聖霊)とによって生まれなければ、神の国に入る事はできない。

肉から生まれたもの(肉眼)は肉である。

霊から生まれたもの(霊眼)は霊である。

『あなた方は新たに生まれなければならない』とあなたに言った事に、驚いてはならない。

風は思いのままに吹く(詩編18章11行、使徒言行録2章2行)。

あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない(霊の耳でなく、肉の耳で聞く限りの結果)。

霊から生まれた者も皆その通りである。」

(ヨハネ福音書3章1~8行)


肉の目と耳で築き上げた自分を、対価に失い支払る者は、神の国を見、神の国に入る事ができます。

新しく生まれる事を自由意志で選択する者を、隣人できる者は幸いです。

アーメン