20220529

今度の役所は、市役所と違い、クセのある人物を見る事が少ないのですが、それでも先週はクレーマーが現れました。

雨の日に雨を避けるために、利用者不在の身障者専用駐車場に車を横向きに停めて、緩慢な動作のお年寄りを降ろし、直ぐに移動した人がいました。

雨ですから、その程度の融通は分かるのですが、その横を通り観察していた男の老人が、身障者カード無しで利用したと仲間の警備員に伝え、プライドの高い仲間が「確認したので大丈夫です」と言った為に、その老人が「嘘つき」と切れてしまい、役所の偉い方の所まで押しかけ声を荒げた為に、トラブりました。

敷地内のルールとしては、不適切な利用ではありますが、ルールの美しさの為に人が在るわけではなく、人々の調和の為にあるのがルールですから、なぜか一定数いる謎の正義感の人々に、ウンザリです。

警備をしていると、身障者カードはなくとも、身体が不自由な方を見る事は多くあり、状況によってはケガなどを回避するために、一時的な利用を許容する判断をする事は多々あります。

高齢化社会だと尚更です。


~ある安息日にイエスは麦畑を通られた。

弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。

ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。

そこで、イエスは言われた。

「ダビデが自分も供の者たちも空腹だった時に何をしたか、読んだ事がないのか。

神の家に入り、ただ祭司の他には、自分も供の者も食べてはならない供えのパンを食べたではないか。

安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだ事がないのか。

言っておくが、『神殿(霊でなく物質に過ぎない)よりも偉大なものがここにある。』

もし、『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなた達は罪のない人たちをとがめなかったであろう。

人の子は安息日の主なのである。」

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。

すると、手の萎えた人がいた。

人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。

そこで、イエスは言われた。

「あなた達のうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。

人間は羊よりもはるかに大切なものだ。

だから安息日に善い事をするのは許されている」

そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。

伸ばすと、もう一方の、手のように元通り良くなった。

ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

(マタイ福音書12章1~14行)


福音書でも主から賜った律法を、神聖視すぎて御心知らずとなり、イエスに躓いたファリサイ派の話があります。

律法は、秩序と信仰の礎作りの為の、成長過程における初期の導きに過ぎず、日常に埋没しやすく信仰を忘れやすい人間にとっては、道を外れない為の約束事です。

イエスは律法に優る行いを示し、神が律法を順守するよりも、喜ばれる行動を示されました。

自由意思が原則の為に、モーセの時になって初めて示された苦肉の策の律法(出エジプト後の堕落の数々)ですから、主においては律法にそって善い事をするのではなく、自由意思により自然な姿で善い事を選択できる人間こそ、律法を示した成果として満足して頂けるのですから、人の命より法が美しく見える者が、御心にかなう事はありません。


夜の見張りの者であるサタンが、ヨブの担当になり、ヨブの家族と財産を対価に支払わせました。

最悪の導き手であり、ダメ出しだけの寝ずの番人です。

人の見張りの職に、厳格に全うしただけなのでしょうが、主に仕える者としては御心知らずです。

弱肉強食の世界で、人が愛と善を示す事は難しく、ゆえに自然界の法則の外側のぬるま湯で、見張りにある者には人間以上のへりくだりが求められます。

それが出来る御使いと光の聖霊こそが、御心にかなう光側である理由です。

福音書でファリサイ派と律法学者らを見ると、将来の寝ずの番人候補にしか感じず、御心も信仰も取り違えています。

先週会ったクレーマーの老人も、間違った正義感?に燃えてエレルギーを消費する方で、寝ずの番人の人間化にしか見えませんでした。

こういう人達は、なぜか自由を極端に横暴な行為に結び付けたがる方が多く、ゆえにルール順守が絶対のように訴えられます。

確かに性善説は愚かしく、そのスキは人を誘惑に駆り立てる要因の一つでもあり、ルールで誘惑から守られるべきとは思いますが、いつまでも同じ場所にとどまっていては成長なく、神の道に一歩も踏み出せませんので、価値を見出だしにくいクレーマーは、適切に退けられる時が来て欲しいと願います。

聖書は長く地上に示されてますが、いまだに神の道の第一歩が、踏み出せない信仰しか人々には見出だせませんから、そこに固定してしまおうとするクレーマーには、寝ずの番人の資質しか見えず、その未来に光を感じる事はありません。


二千年前にイエスが示された善い行いは、律法に優る神の御心です。

神の道に踏み出せる一歩に目覚めましょう。

アーメン