20220523

注・前回の練馬のカバラプロテスタントは、練馬は間違いで豊島区でした。

まあボカシて書いてるので、正解も不正解もないのですが、一応修正しておきます。


「人の子は、栄光に輝いて皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、私の父に祝福されたひとたち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。~』

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。~』

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。

私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれた事なのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。~』

すると、彼らも答える。

『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。

この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかった事なのである。』

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(マタイ福音書25章31~46行)


裁判が終わった後、右の正しい人たちは「福音の約束は本当だった」と言うでしょう。

そして左の罰に至る者たちは、「福音の約束はウソだった」と吐き捨てるでしょう。

ですがその結末は、自身の選択による結果です。


「~大祭司ヨシュアよ、あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。

あなた達は印しとなるべき人々である。

私は、今や若枝である我がしもべを来させる。

ここに石がある。

これは私がヨシュアの前に差し出すものだ。

『この一つに七つの目がある。』~」

(ゼカリヤ書3章8、9行)


「~その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。~」

(ゼカリヤ書4章10行)


七つの教会から遣わされた者たちに、本音を話すかウソを述べるかは、個人の自由意思です。

が、右に分けられた羊は、幼子のように本音で話し、福音を自らの姿勢で真実にしました。

そして左の山羊は、体裁や印象作りの為にウソで向き合いその結果、イエスの福音をウソにしてしまいました。


「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。

私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。

かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を色々と行ったではありませんか』と言うであろう。

その時、私はキッパリとこう言おう。

『あなた達の事は全然知らない。

不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」

(マタイ福音書7章21~23行)


イエスの福音が真実かウソかは、その人自身が決めます。

全世界を見回る七つの御目は、七つのともし火であり、遣わされる者の目は炎の鏡です。

その鏡に、本音で映る者は福音を真実とし、ウソで固めて着飾り映る者は、福音をウソにしてしまいます。

七つの教会の遣わされる者たちを、本音の『神の道』とするか、ウソの『神の囮』とするかは、向き合うその人自身が決める自由です。

自身の選択で映したことが跳ね返るのですから、自分で自分を祝福するのか、自分で自分を呪うのか、今一度福音書に目を通して、目を覚まして整えていなければなりません。


イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

「~行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

~町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人は誰かをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

その家に入ったら、『平和があらように』と挨拶しなさい。

家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。

『もし、ふさわしくなければ、その平和はあなた方に返ってくる。』

あなた方を迎え入れもせず、あなた方の言葉に耳を傾けようとしない者がいた(盗み見たメールでの警告)ら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。

はっきり言っておく。

裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

(マタイ福音書10章5~15行)


嘘つきと詐欺師は同じ才能の持ち主で、隣人とした者にもその報いがあって然るべきでしょう。

その者らはバレた事には反省しても、嘘をついた事には全く後ろ向きにはなりません。

人生が続く限り、呼吸をするように無意識で嘘を吐き続ける、その者のアイデンティティだからです。

宗教教義に侵されていない、無学な光の信仰者たちの到来に、備えましょう。

その為にもイエスの導きに習い(マタイ福音書6章1~13行)、家で素になって個人で祈る事を欠かさないようにしましょう。

集団で祈る習慣だけでは、回りの視線や空気を読む事に気を使い、形式の満足感という対価で終了しがちですから、集団の一人としてでなく、イエスと個人と個人で向き合っていただけるように、家で自然体の祈りの習慣を身に付けましょう。

人は善悪の知識の木の実の支配下にあり、自然にサタンに謁見するときの正解を、玉座のイエスに向けがちで勘違いしてますから、正しく修正できるように、個人での祈りと福音復唱にこそ、努めてほしいと願います。

アーメン