20220508
ゴールデンウィーク最終日です。引っ越してから初の大型連休でしたが、新しい仕事とヘルメットの不具合で、リフレッシュに費やせたとはいえませんでした。
ですが仕事の方は、金曜日はわりと予定通りに勤務できたので、二年間やって行けそうかなと少し安心しました。
とはいえ、火曜日と木曜日は幼児健診で渋滞が起きるそうですから、忙しい時間が発生する事は我慢して取り組むしかなさそうです。
イエスは皆の病気をいやして、御自分の事を言いふらさないようにと戒められた。
それは、預言者イザヤを通して言われていた事が実現するためであった。
「見よ、私が選んだしもべ。
私の心に適った愛する者。
このしもべに私の霊を授ける。
彼は異邦人に正義を知らせる。
『彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。』
勝利を導くまで、彼は傷ついた葦をおらず、くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
(マタイ福音書12章15~21行)
イエスは多くの人々が、善悪の知識の木の実に負ける事を御存知で、その恩恵に授かる世の勝利者たちと連なる人々を、避けられました。
善悪の知識の木の実とも戦いに来られたのですから、身の危険から当たり前の事で、その恩恵に見放された病人や弱者に、イエスは福音を報せました。
また、それ故に十二使徒たちは、全くの無垢な素人から選出されました。
現代では多くの宗教教師たちが、信者の中で金銭的にも家族にも満たされている者は祝福されていると、信仰の勝ち組のように讃えているのを見ます。
寄付への見返りと他の信者への暗黙の促しからでしょうが、ラハブへの導きは無自覚な信仰でしかありません(ヨハネ黙示録18章3行)。
イエスは創造主です。
肉の器を無垢な人の魂に与え、人生を歩き預言者を目指せるよう、導かれています。
ですから繰り返される日常の中でこそ、真に信仰が試されるわけで、イエスは奥まった部屋で真剣に祈り求めよ(マタイ福音書6章5~13行)と、福音として報せました。
それが創造主の本心で、ただの日常の中での信仰心こそが、空間内の光と闇の見張りの者たちも、最も見定める基準になっています。
人が人の世の経験で、用意されたレールに乗ってこなす事が、その道の理解を深めるという事は分かっています。
宗教も同じように見られており、入信する事が信仰の始まりの様に誤解されてますが、そんな事はイエスも十二使徒たちも約束していません。
ですからペトロたちは、「イエス教」とも「イエス派」とも言わずに、ただただイエスの福音として述べ伝えました。
宗教体系化は、御霊の導き無い劣化でしかありません。
創造主はすべての地上の者たちの人生の歩みの為に、肉の器を与えられているのであって、預言者を目指すか、世の祝福を受けるかのシンプルな二者択一が、良い麦と毒麦の別れ道なのです。
至高の人間なら、善を貫き日の光と風と雨に生命の営みを見出だし、その不思議な業に神を感じるでしょう。
そして日と火の光に愛を覚える至高の善き人に、福音を先に知る宗教者たちは、驚異を感じるでしょう。
イエスが自身を『世の光』と言い、ヨハネは福音書冒頭でイエスを光、ルシフェルを暗闇と呼んでいます。
イエスという名は、マリアの子の肉の器の呼び名で、光は御子の霊の名でもあるからです。
天の玉座の王イエスを、光と呼び祈れる者は、すでに神の道を歩んでいる至高の者であり、福音を知る事が後になっても、それは御子の地上での足跡を後付けで知っただけで、至高の善き人にとっては、玉座の王と同一人物である事の、確認作業にしかなりません。
ですから宗教入信は必須などではなく、むしろ御霊無しで教義を世に最適化している以上、救いに至る狭い門からは遠ざかる事になります。
ハ陽火の開示にキリスト教徒が寄ってきても、他宗教より厄介な敵だと認識できるはずです。
同じ聖書をもって、真正面から激突する解釈をしているのですから。
世界最大の宗教に用はありません。
滅びに至る広い門ですから。
ハ陽火の聖書開封を、自分なら上手くメジャーに出来ると思って離れないのであれば、それは既に善悪の知識の木の実の誘惑に負けているのですから、盗賊団のように寝ずの番人を引き寄せ、闇の燭台に捕らわれるだけです。
目が開かれていない自身に目覚めましょう。
アーメン
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