20220417
引っ越しの時に、重いジェットヘルを捨てましたので、昨日新しく軽いジェットヘルを買い、それを被って今日は阿蘇に行って来ました。
ヘルメットにおける軽さは正義だと実感出来ましたが、すれ違うバイク乗り達のヤエーの挨拶には、神経が疲れました。
役所で会う多数の人達に息がつまって、大自然の中に逃避してる面もありますから、山の中まで人に酔うのはどうにかならないのかと、考えさせられましたね。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
(マタイ福音書5章1、2行)
イエスはそこ(ティルスとシドンの地方)を去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。
そして、山に登って座っておられた。
大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々を癒された。
群衆は口の利けない人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、『イスラエルの神を賛美した。』
(マタイ福音書15章29~31行)
~イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(ダニエル書7章9、10行)。
見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語りあっていた。
( マタイ福音書17章1~3行)
イエスも山に登られる事を、大事にされていました。
玉座の有る神殿が、聖なる山(イザヤ書2章2行、27章13行、56章7行、66章20行、エゼキエル書20章40行)にあるからでしょう。
ですがイエスが赤子の時、エジプトに避難したからといって、間違っても寝ずの番人たちが自らの為にも建てたピラミッドを、光の神殿として信仰してはなりません。
あれはルシフェルと闇の燭台たちの、死者の書信仰ですから。
「~私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。
そのとおり。
私にもそう見える、と主は言われる。~」
(エレミヤ書7章11行)
~イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。
「こう書いてある。
『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなた達は、それを強盗の巣にしている。」
(マタイ福音書21章12、13行)
聖霊体験無い者は、御霊の有無で神殿と祭壇の神聖さを見分ける事が出来ませんから、聖霊が近寄らない事も平然と行ってしまいます。
人の目には何ら変わりないように、映るからです。
ですが主や空間内の者たちにおいては、すべてが明確です。
光の者たちは遠ざかり、闇の者たちは訪れます。
御霊がまだ無い事で、自身の器こそ神殿として形成するという事に、目覚める事がありません。
イエスが奥まった部屋でシンプルに祈れば、御父が聞いてくださると導いても、虚しさを恐れ信じきれていません。
福音を信じて実践できれば、御使いも従い易くなり助けて下さいます。
光の者たちを動けなくしているのは、目覚める前の自身です。
福音を真っ直ぐに受けとめましょう。
アーメン
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。