20220405

ウクライナで、耳を疑うようなニュースが入って来ています。

戦争における死の恐怖が、人から正常な意識を奪うのでしょう。

エンターテイメントが発達した現代で、嘘のような日常に突然巻き込まれている人たちがある事に、言葉を失ってしまいます。

この疲弊が、今後どのように世界に影響を与えるのか、更なる忍耐が試されるのは、今の世の人たちの宿命ですから、小さな喜びに感謝の祈りを忘れないように努めたいものです。


弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちには例えを用いてお話しになるのですか」と言った。

イエスはお答えになった。

「あなた方には天の国の秘密を悟る事が許されているが、あの人たちには許されていないからである。

(御霊を)持っている人は更に与えられて豊かになるが、(御霊を)持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

だから、彼らには例えを用いて話すのだ。

見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなた達は聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見る事なく、耳で聞く事なく、心で理解せず、悔い改めない。

私は彼らをいやさない。』~」

(マタイ福音書13章10~15行)


イエスは宗教活動のようには人々を受け入れていません。

もちろん献金額など考慮されず、ただただ御父の御心に適う者と適わないとで分けられ、多くの人を共通理解にとは導かれませんでした。

同じように八陽火の聖書開封の報せも、人を選びます。

誰にでも分かるようにとは、望む事が出来ません。

ゆえに一般大衆向けに幅広くという視点は全くなく、肉の脳に落とし込めるようにと、かみ砕いても悪あがきにしかならないでしょう。

聖書の本質は、全く宗教利用になど向いていないのが、真実です。

理解に至るには、宗教者の領域ではなく、預言者を目指し預言者に至るしかないのです。

それが主に認められる真の証しとなるのですから。


「~私は父にお願いしよう。

父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる(自身の魂と聖霊の結婚)。

この方は、真理の霊である。

世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない。

~しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべての事を教え、私が話した事をことごとく思い起こさせてくださる。~」

(ヨハネ福音書14章15~17、25、26行)


真の聖書理解に、聖霊を欠かす事は出来ません。

この魂と聖霊の結婚がなければ、絶対に理解に至らないようになっています。

聖霊を受けた使徒言行録のペトロたちと、聖霊を受ける前の福音書のペトロたちは、霊においては別人に等しいのが事実です。

この視点を持ち、この重要な根幹に気付けないのが、宗教者です。

それは聖霊未体験者しかいないからです。

ですから福音書を真っ直ぐに読むことが出来ません。

宗教者を目標に歩んでも、福音書の聖霊を受ける前の、福音書時代のペトロたちを目指す事にしかならず、聖霊を受けた使徒言行録の使徒たちの領域には、自由意思の選択で辿り着きません。

努力の方向性が歪んで、真理から離れた神学を、肉の脳のために巧妙に組み立て、納得してしまうだけです。

創造主は自由意思の選択で、人が人生を歩く事を御覧になられますから、正しい正しくないに関係なく事が成立する以上、聖霊の無い者が御心を知るのは大変に難しいのが現実です。

成立し伝統があっても、それは人が持つ自由ゆえの結果で、正しいという御心ではありませんから、最後の審判に挑まれる王の姿勢を、見誤らないようにしなくてはなりません。


福音書の時と同じく、今はまだ聖霊が遣わされる時間ではありません。

ゆえに二人の証人が、イスラエルとエルサレムと七つの教会に集う民の罪を背負い復活するまでは、『耳ある者は霊が諸教会に告げる事を聞くがよい』に従い受け取り、現在の使徒言行録の時間に当たる千年王国に入るまで、聖霊を受け賜う肉の神殿造りに、集中できるよう努めましょう。

アーメン