20220131
新型コロナの感染が拡大しています。
役所も複数で閉鎖消毒になり、引っ越し前に濃厚接触者にもなりたくなく、注意しています。
この部屋で待機になるのは、本当にウンザリですから。
主はモーセに言われた。
「あなたは炎の蛇(ケルブ・インマヌエル=イエス)を造り、旗竿(十字架)の先に掲げよ。
蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る(イエスへの信仰結果)。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。
蛇(ケルブ・ルシフェル、エゼキエル書28章16行)が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
(民数記21章8、9行)
イエスは答えて言われた。
「~天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない(自らの十字架刑預言成就の予告)。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである(青銅の蛇を仰いで命を得たイスラエル人と同じ)。~」
(ヨハネ福音書3章13~15行)
聖書には主の言葉で、多くの偶像拒否の意思表示が、ハッキリと記されています。
その主が青銅の蛇の偶像を造らせ、仰がせた理由は、人として生誕なされたイエスも、肉の器においては偶像であるからです。
人間という存在も偶像であるから主は、王を求めたイスラエル人たちを一度は退けましたが、民に折れてサウル、ダビデ、ソロモンといった王たちの出現を認められました。
ですが主の本意にそぐわない王制(サムエル記8章1~21行)でしたから、サウルは退けられ、ダビデは取り返しのつかない罪を後に犯し、ソロモンは分裂をイスラエルにもたらしました。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
「私の主が取り去られました。
どこに置かれているのか、私には分かりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった(天の玉座の王の御姿に戻られた為)。
イエスは言われた。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。
誰を捜しているのか。」
マリアは園丁だと思って言った。
(ヨハネ福音書20章13~15行)
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。
主であることを知っていたからである。
(ヨハネ福音書21章12行)
復活したイエスは、ダビデとステファノが見た、玉座の王の御姿で現れた為に、誰も分かりませんでした。
またその御姿は、イエスの肉の器の姿の時とは違い、限られし認められた者たちだけが、目撃の栄光に授かれました。
御父の右の玉座の王も、人の子イエスも同じ霊の同一人物ですが、示している象徴に大きな違いがあります。
玉座の王は永遠ですが、イエスは復活だけでなく死という陰の象徴もお持ちでした。
同じ方で栄光に差があるのは、人間という存在が霊とは違い、永遠には至れないからです。
数千年以上の積み重ねのある玉座の王の、たった三十三年と半年程度のイエスの時間でしたが、創造者が創造物と同じ目線に立たれた事は、人を愛されておられるハッキリとした証しであったと、明確に受け取れます。
ですが新しい名を得られて、御父の右の玉座に戻られた王は、もはやイエスに戻られ過去に帰られる事はなされません。
光の宇宙に導き、光の信仰者と共に永遠に生きられるのは、復活して玉座に戻られた王です。
前進する信仰が必要です。
「~だから、言っておく。
人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、『霊』に対する冒涜は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。
しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦される事がない。」
(マタイ福音書12章31、32行)
人が人であるイエスの御名への不満は、赦されると認められています。
ですが聖霊と同じく、霊である玉座の王に向かっての反感は、同じようには受けとめられないでしょう。
ですから自信の無い者は、まだ玉座の王に向く事を控え、歴史のイエスに留まり畏まるのも、間違いではないと感じます。
アーメン
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