20211220

土曜日、二回目のワクチン接種に行って来ました。
回数を重ねて上手くなったのか、それとも苦情があって改善したのか、同じ人物からの接種で、今回は刺さる時の痛み以外は無く、接種後の違和感と痺れもありませんでした。
理由は不明ですが、何か一回目は損した気分になりましたね。
ですが、夜に左腕を上に上げてから例の打撲のような痛みが始まり、今回は翌朝には微熱もありました。
なので今日は朝一から体がだるく、早いですが栄養剤を飲んで仕事に行きました。
効かなかったですが、今日はトラブル無く済んだので、良かったです。


私たちの聞いた事を、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示された事があろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人(イエス)は主の前に育った。
見るべき面影はなく(玉座の時とは別人の姿だった・ヨハネ福音書21章12行)、輝かしい風格も、好ましい容姿もない(ルシフェルと対極の美学・エゼキエル書28章17行)。
『彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを背負い、病を知っている。
 彼は私たちに顔を隠し(メシアである事を公にしない・マタイ福音書8章4行、9章30行)、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに。
 私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ(マタイ福音書27章26行)、と。
 彼が刺し貫かれた(ヨハネ福音書19章34行)のは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。
 私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった(マタイ福音書27章11~14行)。
 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。』


彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。
私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり(ヨハネ福音書17章)、命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた(マタイ福音書27章57~60行)。
『病に苦しむ(十字架上での鞭の傷)この人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らの償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれる事は、彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
 私のしもべは、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし、彼はおびただしい人を受ける。
 彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い、背いた者のために取りなしをしたのは、この人(イエス・キリスト)であった。』
(イザヤ書53章)


メシア降臨と創造主としての責任をイエスは背負い、地上の民の罪をリフレッシュされました。
それを福音書を知っても誘惑に負け、闇の権威に寄り頼んだ者たちのように、玉座の王の再生誕と十字架刑の再リフレッシュを、希望の願いとしてはなりません。
宗教脳からの目覚めはの無い、例え話が相応しい者たちのように成らないためです。
パウロの手紙は、顔が思い浮かぶ者たちに向けて書かれたのであり、未来の読者のための預言とは違います。
当時の知っている者たちだからこそ、特に愛に溢れているのであって、他者への明確な手紙(メール)を己宛てと誤変換し、ストーカーのような歪んだ視点を育ててはなりません。
それが無意味で無駄な心の隙を生みだしますし、光が直進するエネルギーであることから、陰府のように道を空間を歪ませる試みに囚われないためです。
善に基づく選択をし、光のように道を直進し、自らを神殿として作る者は幸いです。
アーメン