20211126

~イエスは、すべての事が今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。
こうして、聖書の言葉が実現した。
~イエスは、このブドウ酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネ福音書19章28、30行)


イエスの処刑は、復活のための人としての命の支払いであり、対価計上されたものです。
自ら見本・手本となり、示されました。


「~あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。
 見よ、『悪魔が試みる』ために、あなた方の何人かを牢に投げ込もうとしている。
 ~死に至るまで忠実であれ。
 そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(命の木そのものと成ること)」
(ヨハネ黙示録2章10行)


悪魔の人間に対する試みは、厳しいですが承認されている仕事です。
ですがイエス御自身も、サタンに入られたユダを通じて死を受け取り、復活に至り永遠に死の力を征服されました。
神が、食べれば必ず死ぬと警告された知識の木の力(創世記2章17行)は、永遠に生きる者となれる命の木(創世記3章22行)には敵わず、死は命に無効化されるからです。


二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵(陰府・イザヤ書14章15行)から上がって来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。
~三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。
彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。
(ヨハネ黙示録11章7、11行)


イエスと山上の幻の奥義を形成する二人の証人も、真理の完成のためにイエスと同じように死を受けて命に至ります。
人としての人生の終了を受け入れ、対価として支払って失うのです。
人外の存在である、天の者と成るために。
天にありながらヘルモン山に降りて、人の営みに堕ちて立場を失った寝ずの番人とは、正反対の道です。


小羊が第五の封印を開いた時、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇(ヨハネ黙示録8章3~5行)の下に見た。
彼らは大声でこう叫んだ。
「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(復活待ちの者たち。また人生を歩いてからしか天に入れない。ヨハネ黙示録20章6行)
すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間である者たちの数が満ちるまで(千年王国の開始時間)、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
(ヨハネ黙示録6章9~11行)


天から失われた寝ずの番人の場所は、彼らが侮って試みた人間により補完され奪われるのですから、帰る場所を失う仕事に精を出しているとは、夢にも思っていないはずです。
天に戻るために真面目に人への試みに取り組んでいるのなら、主の御心を裏切った背信行為の代償は、この上なく高い支払いになると教えられます。
ここに天にいる上位存在すらも、軽く掌の上で踊らせる事ができる神の存在としての違いを、人の脳でも思い知る事ができ、大いなる方々への信仰が明確に確立され、神の道の歩みに追い風となって上れるのです。
誉むべきかな主は。
アーメン