20211123

その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
(マタイ福音書3章1~6行)


ヨハネは宗教者の道ではなく、預言者の道を歩むため、神殿を避けて活動しました。
いばらの道でなければ、単独で臨み主と向き合う預言者とならなければ、主の使命を真に果たせないためです。


ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々(宗教者たち)が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたか。
 悔い改めにふさわしい実を結べ(知識の木の実ではなく、命の木の実)。
『我々の父はアブラハムだ』名どと思ってもみるな(キリスト教徒ならパウロ含む十二使徒)。
 言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出す事がお出来になる(契約の民のうぬぼれの薄っぺらさを警告)。
 斧は既に木の根元に置かれている。
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる(マタイ福音書13章36~43行)。
 私は、悔い改めに導く為に、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。
 私は、その履物をお脱がせする値打もない。
 その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる(民数記21章8行・ヨハネ福音書3章14行)。
 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消える事のない火で焼き払われる。」
(マタイ福音書3章7~12行)


宗教者の道に踏み出さず、日常に生きライトに信仰する民たちには、ヨハネは優しく対応しましたが、預言者の成りそこないを選択して、権威の旨味に浸かった者たちには、容赦ない警告をしています。
失う対価を支払わずに支持者を装っても、ヨハネはルシフェルと違いチヤホヤされる事に興味がありませんから、退けて当たり前です。
福音でも、救いに至る狭い門を通る者は少ないと預言されている通り、数よりも質に神が重点を置かれているのは明白ですから、闇の権威を受け入れて闇の燭台のメンバーにされないよう、誘惑に勝たなくてはなりません。


再開した八陽火のブログは、十四万四千人に向けての開示と言っています。
宗教者ではなく、預言者に至る者たちのための、異言です。
その為の真理の解釈であり、また聖霊の正体の開示でもあり、宗教の伝統保守など頭の片隅にもありません。
ライトな信仰者が来ても、献金と引き換えに耳心地の良い事を言うつもりもなく、いばらの道を歩み信仰のために苦難を共にできる者に、共感を得られればと望んでいます。
八陽火に宗教者の姿を重ねるのは、大きな誤りです。
イエスも例え話でのりきって本質を解放せず、真理の本当の輝きは選ばれた者たちだけに解放しました。
セラフ・ケルブという存在は、人間という生物ではありません。
人間を辞め失う対価を支払う者が、御使い・聖霊に至るのです。
預言者の道に踏み出すかは自由意思で選択できますが、その自由には神が洗脳を嫌っておられる事実が含まれています。
ですから信仰は宗教宗派の支持者のように持つのでは無いという事に、まずは目覚めましょう。
アーメン