20211108

翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいた頃、ペトロは祈るため屋上に上がった。
昼の十二時ごろである。
彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。
人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅で吊るされて、地上に下りて来るのを見た。
その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
そして、「ペトロよ、未を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
しかし、主は言った。
「主よ、とんでもない事です。
 清くない物、汚れた物は何一つ食べた事がありません。」
すると、また声が聞こえてきた。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
こういう事が三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、独りで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探しあてて門口に立ち、声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。
ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊(御霊・内成りし者)がこう言った。
「三人の者があなたを探しに来ている。
 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。
 私があの者たちをよこしたのだ。」


~ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
ペトロは彼を起こして言った。
「お立ちください。
 私もただの人間です。」
そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。
「あなた方もご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりする事は、禁じられています。
 けれども、神は私に、どんな人を清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、御示しになりました(ただただ純粋に善悪で判断する事)。
 それで、御招きを受けたとき、すぐ来たのです。
 お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
すると、コルネリウスが言った。
「四日前の今頃の事です。
 私が家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人(担当守護者)が私の前に立って、言うのです。
『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。
 ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。~』
 それで、早速あなたの所に人を送ったのです。
 よくおいでくださいました。
 いま私たちは皆、主があなたにお命じになった事を残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
そこで、ペトロは口を開きこう言った。
「神は人を分け隔てなさらない事が、よく分かりました。
 どんな国の人でも、『神を畏れて正しい事を行う人は、神に受け入れられるのです。』(有神論の真理探究者はキリスト教徒の信仰に勝るという事)~」
ペトロがこれらの事をなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた(キリスト教徒の告白無し正しい者なら受けられるという事)。
異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである(キリスト教徒である事での線引きに意味は無い)。
そこでペトロは、「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受ける(逆順もあり)のを、いったい誰が妨げる事が出来ますか」と言った。
そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。
(使徒言行録10章9~48行)


ここには寝ずの番人が担当する国の者でも、闇の権威を拒否し、神と正しさを求めて祈りをかかさない者なら、生まれが清くなくとも主は救い上げられるという、慈悲が示されています。
毎日の日常の中でこそ、主は見ておられますから、担当守護者を光の者にできるよう、闇の権威を退けなければなりません(マタイ福音書6章1~13行)。


ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である(キリスト教徒を続ける事とは関係ない)。
また、私は天からこう告げる声を聞いた。
「書き記せ。
『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」
霊(御霊・内成りし者)も言う。
「然り。
 彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。
 その行いが報われるからである。」
(ヨハネ黙示録14章12、13行)


日々の生活の中で、その行いによって御霊を受け、御父の教育で育つ信仰者は実在します。
神との仲介に必要なのはキリスト教ではなく、光の霊と賜物持ちの信仰者です。
長く仲間宛ての証しを盗み見て、公では神に祈る者たちを見て来ました。
当然、祝福の霊を得られず、神の道のスタート地点にすら立てていません。
公の目に触れる所で「然り」と言っても、それは見えない所での信仰を救われる方には、非常に愚かな判断にしか映りませんから。
神からの称賛(多くの無言も含めて)を、人からの聞こえる称賛と比べて目先の快感に酔う為に退ける者が、御霊を受けて神の道への歩みを始める事など、絶対に出来得ません。。
御子イエスが伝えられた、御父の実像を都合が悪くとも真剣に受け入れて、忍耐の司令を真の光の信仰者は守る必要があります。
アーメン