20211009
イエスはまた言われた。
「はっきり言っておく。
私は羊の門である。
私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である(自称救世主・使徒言行録5章34~39行)。
しかし、羊(草食)は彼らの言う事を聞かなかった。
私は門である。
私を通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける。
『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする為にほかならない。』
私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。~」
この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。
多くのユダヤ人は言った。
「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。
なぜ、あなた達は彼の言う事に耳を貸すのか。」
(ヨハネ福音書10章7~20行)
群衆が答えた。
「あなた(イエス)は悪霊に取りつかれている。
誰があなたを殺そうというのか。」
(ヨハネ福音書7章20行)
ユダヤ人たちが、「あなたはサマリヤ人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。
(ヨハネ福音書8章48行)
イエスは度々ユダヤ人から、悪霊に取りつかれていると見られました。
霊が足りず、耳が無いのですから、必然として仕方ない結論で、哀しき正直者たちです。
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
「私は、あなたが迫害しているイエスである。
起きて町に入れ。
そうすれば、あなたの成すべき事が知らされる。」
(使徒言行録9章3~6行)
使徒言行録の1章にて、聖霊を受ける前のペトロたちは、イスカリオテのユダの開いた席に、マティアをくじ引きで選出しました。
ですが十二使徒は、イエスが自らお取りになるので、敵が身内だったユダを取ったように、敵の身内からパウロを取り良しとされました。
パウロは築き上げた地位と時間を対価に失い、真実に従う選択をしました。
人造の歴史・伝統よりも、主の御心を優先した真の信仰者だからです。
聖書には、主の教え・福音といった表現はあっても、三位一体やキリスト教徒といった言葉はありません。
預言者たちの誰一人として、宗教者だったものはいないからです。
宗教体系化や宗教教義は、預言者の成りそこないが御霊無しで自由のもとに行った事であり、そこに神の約束はありませんから、ただの文化の一つであり、日常の中のカウンセリング的拠り所でしかありません。
「狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も狭いことか。
それを見い出す者は少ない。」
(マタイ福音書7章13、14行)
キリスト教徒は世界で二十億人以上いる最大のイエスの信奉者たちですが、イエスの預言と彼らの数は全く相反しています。
組織の者は、宗派の違いによってわずかに成ると言うかもしれませんが、こちらの聖書開封に触れれば、イエスの真意に如何なる団体教義も沿ってはいないと分かるはずです。
イエスの預言を御霊無しで軽んじてしまう事無く、その視点の角度を冷静に見極め、真意に気付かなくてはなりません。
「~今の時代を何に例えたらよいか。
広場に座って、他の者にこう呼びかける子供たちに似ている。
『笛(ラッパ)を吹いたのに、踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人たちや罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
(マタイ福音書11章16~19行)
こちらの無償開示は、命あるすべての者に知らされます。
第五教会だけなどという事もありません。
自由意思での選択の為に、善にも悪にも等しく届けられます。
そして耳ある者だけが、神の道に導かれて上る事になります。
既に霊の人と肉の人の向きの違いは確認できていますから、よりいっそう別れて良い麦と毒麦とで育つでしょう。
アーメン
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