20210930

イエスはお答えになった。
「私の国はこの世には属していない。
 もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に渡されないように、部下が戦った事だろう。
 しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。
「私が王だとは、あなたが言っている事です。
『私は真理について証しをする為に生まれ、その為にこの世に来た。
 真理に属する人は皆、私の声を聞く。』」
ピラトは言った。
「真理とは何か。」
ピラトはこう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。
「私はあの男に何の罪も見い出せない。
 ところで、過越祭には誰か一人をあなた達に釈放するのが慣例になっている。
 あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
すると、彼らは、「あの男ではない、バラバを」と大声で言い返した。
『バラバは強盗であった。』
(ヨハネ福音書18章36~40行)


サタンはイスカリオテのユダに入り、イエスを死に導きました。
そして現在、陰府で主の審判の日を待つ当時のユダヤ人たちは、イエスではなく強盗に自由を求めました。


イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。
 そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに自分は救えない。
 イスラエルの王だ。
 今すぐ十字架から降りるがいい。
 そうすれば、信じてやろう。
 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。
『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
『一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。』
(マタイ福音書27章37~44行)


使徒ではないルカの福音書(23章39~43行)では、強盗の一人がイエスをかばい、永遠の祝福を受けたとする、内容の違う危険な導きが記されています。
十字架上のイエスと両側の二人には、山上の幻(マタイ福音書17章1~8行)に対する、闇側の攻撃的な真意が秘められているからです。
イエスを強盗の王のように見せるこのような印しは、闇側の天に対する強い意志表示にほかなりません。
真理の書き換えを主張しています。


私が再び目を留めて見ると、一つの巻物が飛んでいた。
御使いが私に、「何を見ているのか」と尋ねたので、私は答えた。
「巻物が飛んでいるのが見えます。
 その長さは二十アンマ、幅は十アンマです。」
彼は私に言った。
「これは全地に向かって出て行く呪である。
 すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。
 また偽って誓う者も、他の面の呪に従って一掃される。」
私がこれを送り出す、と万軍の主は言われる。
それは盗人の家に、我が名によって偽りの誓いをする者の家に入り、その家の中に宿り、梁も石も諸共に滅ぼし尽くす。
(ゼカリヤ書5章1~4行)


「はっきり言っておく。
 羊の囲いに入るのに、門を通らないで他の所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である(然り。キリスト教徒盗賊団)。
 門から入る者が羊飼いである。
 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
 羊はその声を知っているので、ついて行く。
 しかし、他の者には決してついて行かず、逃げ去る。
 他の者たちの声を知らないからである。」
(ヨハネ福音書10章1~6行)


盗賊団がこの御言葉に触れるのは、何度目でしょう。
何年にもわたり、真理と共に警告は退けられ、稲妻個人宛ての報せを盗み見ては、盗み得た喜びで祈るという、天への挑発行為を顧みませんでした。
闇の軍勢にとっては、愉快犯的な大満足の導きで、お気に入りのおもちゃだったでしょう。
最後の決断は、盗賊団自身にさせているのですから。


イエスは盗みの権威を退けます。
それは盗みで光と闇の線引きが、明確に出来るからです。
ですから光の信仰者は、陰府に誘う闇の聖霊候補(箴言9章13~18行)や寝ずの番人候補に、注意警戒をおろそかにしてはなりません。


ルカの福音書には、マタイの福音書と同じく、イエスの系図が書かれています。
ですが過去からではない逆順であり、またアダムまでさかのぼる事で、あたかも優っているかのようです。
マタイ福音書より後に作成されたルカ福音書のこの部分には、残念ながら嫉妬的な優越感を感じざるをえません。


神は続けて言われた。
「私はあなたの父の神である。
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
(出エジプト記3章6行)


アブラハム(メルキゼデグの祝福持ち)はソドムとゴモラに向かう、三人の御使いに会いました(創世記18章)。
その三人は、顕わされたイエスの山上の幻と同じ、栄光の写しです。
ゆえに神はモーセに、アダムではなくアブラハムから三人を数えて知らせました。
使徒マタイの知らせこそ、真理を表しています。
余計な味付けは要らず、ルカは大洪水後にピラミッドを開いたアルパクシャドを入れてますから、汚れを系譜に加えています。
ファラオのエジプトに魔術師が出現出来たのは、そのアルパクシャドのおかげなのですから。


人は知らず知らずの内に、近しい霊力の者に親近感を覚えますから、自然にルカの福音書に惹かれてしまいます。
それは悪い事ではなく、自らのレベルの鏡としては不自然ではありません。
使徒たちとルカではその霊力は全く比べる事など出来ませんが、聖霊受け前の福音書の使徒たちを知ってしまうと、現代的視点で医者のルカに更に惹かれるてしまうのも無理はありません。
まだ、現代人は聖霊知らずですから。


人が持つ自由は、時として残酷です。
そうならないよう御言葉から離れないよう心掛けましょう。
アーメン